実が落ちる前に

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プロローグ① 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

 この晩、瀬戸内海は荒れていた。

 しけの中、海上の航海灯は少ない。

 雨の中、悠太朗が操縦する船は船首で闇を切り裂きながら、島に向かっていた。ときおり船は真上に浮きあがる。いつの頃からか風も強くなっていた。

 悠太朗はともすれば波にとられそうになる舵輪を制御しようと、両腕を突っ張る。

一瞬、風がやんだ。そのタイミングで、悠太朗は舵輪から左手を離して、太腿にこすりつけた。さっきから腕がだるくて仕方ない。たて続けの肉体労働のせいか、日頃の運動不足が祟ったのか、腕に力が入りにくくなっている。しびれが走る度に悠太朗は舌打ちをし、利き手をかばうのだ。

 腕の疲労とは関係なく、両脚は始終、震えていた。波に乗りあげた船が縦揺れする度に嘔吐感に襲われた。うっかり気を抜くと、内臓ごと吐き出してしまいそうだ。

 それでもなんとか島に帰りつく。無事、島に帰りついたとき、悠太朗は両膝から操舵室の床に崩れ落ちた。長い航海だった。時間にすれば三時間もなかったが、何日も海を漂っていたようだ。海水と泥で汚れた床に額を載せる。しばらくその姿勢のままでいた。安堵と疲労が身体の隅々にまで浸透していく。潮の匂いが鼻をつく。一度萎えた心身に、立ち上がる気力はなかなか湧いてこなかった。

 雨の中、係留杭に舫い綱をかけてから、停めておいた軽自動車に向かう。ウィンドブレーカーに降った雨は粒になる間もなく、滝になって流れ落ちた。

 突然、視界が白くなる。

 悠太朗は腰を抜かしそうになった。へっぴり腰になって、目元に手をかざす。

 軽自動車の脇に立っていたのは、大きな懐中電灯をかまえた母親だった。

 母親は懐中電灯を消すと、雨に濡れながらよたよたと駆け寄ってきた。濡れて脚にまとわりついたスカートの裾に泥がはねる。

 こんな雨風の強い夜くらい、ズボンに長靴を履けばいいのにと悠太朗は思ったが、口には出さなかった。代わりに、「中に入っておけばよかったのに」と言った。言いながら、そういえば、車のドアの鍵をしめたんだっけと思った。つい先ほどのことなのに、記憶がない。手をかけてみると、やはり軽自動車のドアの鍵はかかっていた。いつもと違う行動をとるときは大抵、よくない選択をとってしまうのだ。よい方の選択だってあったはずなのに。

 悠太朗はウィンドブレーカーのポケットから、いましがた船から抜いてきたキーホルダーをとりだした。キーホルダーには船のキーと一緒に軽自動車のキーもついている。島のことだから、いつもはこのキーホルダーは車に入れっぱなしだ。船に乗るときだけ、キーを車から外す。今夜は悠太朗にとって、久しぶりの船の操縦だった。

「悠太朗」

 母親は助手席から運転席の悠太朗の腕に手をかけた。母親の指先がウィンドブレーカーの上から悠太朗の腕に食いこむ。細い腕のどこにこんな力があるのだろう。悠太朗は母親の華奢な手を取った。母親は海に出たこともないのにちゃんと島の女だ。労働を知らない掌は薄いが色黒だ。先祖代々が浴びてきた日の光がこの手にはちゃんと残っている。

 悠太朗は母親の手の甲をさすった。

「お母ちゃん、こんな雨の中、外で待っとらんでもえかったのに」

「そがいなことをいうても、遅いけえ、母ちゃん、心配で。今夜は海も荒れとるし」

「あれくらい大したことはないよ。台風なら大変じゃっただろうけど」

「ほうか? それなら……。それで、あれはどうしたん?」

 悠太朗はせかす母親の口を一度止めてから、車窓から外を見まわした。

 雨で窓が曇っている。今頃になって、先ほどの母親が照らした懐中電灯の明かりが気になった。あれを誰かに見られていたら……。

「大丈夫、誰もおらん。母ちゃん、ずっとここで待っとったんじゃけえ、誰か来たら気づいとる」

 そうはいっても誰かに見られているのではないかと心配で、悠太朗は手で窓のガラスを拭ってからもう一度周囲に目をやった。声をひそめて言う。

「何も考えんと海に出たけえ、えらい遠まわりになってしもうた。直前になって、そのまま海に落としたら浮くっちゅうことに気付いたけど、なんせ海の上じゃけえ、手頃な重石があるんでもなし。しようがないから三神島で石を都合して、一緒に沈めたんじゃ」

「三神島に? 石を探しとったけえ、こんなに時間がかったんか」

 悠太朗は舌先を口の内側で一回ししてから、「そうじゃ」と短く答えた。

 また黙り込んだ悠太朗を母親は不安そうに見つめている。

「何はともかく、うまくいったんよね」

 悠太朗は母親を安心させるための笑顔を浮かべた。

「こっちは心配せんで大丈夫。それよりお母ちゃん、こんな時間に家を出て大丈夫なんか? 姉ちゃんに不審に思われちゃあ、元も子も」

「若いもんは今日はおらんし。外から留守に気付かれんよう、電気とテレビをつけっぱなしで出てきたんよ」

 母親は少しだけ胸を張って、得意そうに言った。

「母ちゃんの方もうまくやったけえ、心配はいらん」

「ならええけど」

「そうじゃ。体冷えたじゃろ。コーヒーいれてきたけえ、飲みんさい」

 母親は膝の上のビニール袋から魔法瓶を取り出した。

 うっかり舌を火傷した。コーヒーで今夜の疲労をなかったことにすることはできないが、それでも頭のスイッチを入れ直すだけの気力はわいてきた。冷え切った身体も次第にほぐれていく。船の上と同じ精神状態で車を運転したら、今度こそ事故を起こすと危惧していただけに、母親が用意してくれた一杯のコーヒーが身体中に染みわたった。

「ほんなら、何もかもうまくいったんじゃな。あの女をやってしまったとき、母ちゃん、馬鹿なことをしてしもうた思うたけど、悠太朗がうまく始末してくれたんなら、もう心配することはないんじゃな。でも、悠太朗に迷惑をかけてしもうた。あの女は憎かったけど、悠太朗にこんなことをさせてしもうたうえに、本家に泥を塗ってしもうては母ちゃん、ご先祖様に顔向けができん。悠太朗にも申し訳なくて」

「もう言いんさんな」

 悠太朗は母親の繰り言を遮った。

「もう済んだことじゃけえ、二度と言いんさんな」

 ゆっくりとアクセルを踏み、家路についた。

 慣れきった島の道。

 カーラジオでは、広島のニュースが始まっていた。

 瀬田家の前で母親を下ろした。瀬田家は母親が養子に出された家だ。元々、何代か前の当主が自分の弟のために出してやった分家の家である。母親の言葉通り、カーテンの隙間から居間の明かりが漏れている。

「今夜は熱い湯に浸かって、早う寝んさい」

 助手席から下りた母親に悠太朗は言った。

「もう何の心配もいらんけえな」

 母親の細い背中が玄関に入っていく。それは悠太朗が最後に見た母親の姿だった。