実が落ちる前に

自作小説を公開するブログです。暇なとき、読んでいただけたらうれしいです。小説は作品ごとにカテゴリー分けしています。日記や雑文はその他カテゴリーです。

プロローグ② 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

 自宅の駐車場から真っ暗な母屋を見る。このとき悠太朗は初めて罪を自覚した。

 何てことをしてしまったのだろう。

 生みの母を助けるためとはいえ、育ての母を袋に詰め埋めてしまった。荼毘にも付さず、殺されたままの姿で……あれではかわいそうに、成仏できないだろう。あんなに自分をかわいがってくれた母親をこの手で……。

 ハンドルから外した手をじっと見つめる。

 しばらく運転席から動くことはできなかった。カーラジオが、今夜の雨が峠を越えたことを言っている。アナウンサーの声を聞き流しながら、母屋の隣に立つ我が家の明かりを見つめた。昔は納屋だった建物だ。何度かのリフォームを経て今では、母屋とは廊下で行き来できるようになっている。

 家を守るためだ。

 悠太朗はそう自分に言い聞かせて、精神を保つ。

 エンジンを切ったとき、悠太朗はキーを回した手をふと止めた。

 雨の中、下校していた紗江ちゃんを家まで送り届けてあげたのは今日の夕方のことだったか。もう遠い昔のようだ。そういえば、紗江ちゃんが「今日はこれから向うのおばあちゃんのところに行くのだ」と言っていた。そうか、姉ちゃんたちは今日は英夫さんの里の方へ行っているのか。だからお母ちゃんは「今日は若いもんはいない」と。 

 今、車のキーにぶら下がっているのは、先ほどまで操縦していた船のキーと、それと家内安全祈願の赤いお守りだけだ。今日の夕方までは赤いのがもう一つぶら下がっていたのだが。

(あのバカがお守り程度のご利益で、合格できるはずがないのだから)

 本家の跡継ぎだからといって、一応中学受験をさせるつもりではいるものの、親の欲目を加えても、とてもでないが合格できそうにない。

 紗江ちゃんにあげた方がまだ、天神様も力の発揮のしようがあるだろう。

 悠太朗はいつも通り、車にキーを残して外に出た。

 まだ雨は降っていた。だが、最前までよりも勢いはない。どうせもう濡れているのだから、と悠太朗は傘をささないまま、駐車場から玄関先まで小走りした。

「ただいま」

 玄関の戸を引きながら、帰宅が遅くなったことをどう妻に言い訳しようかと考える。

 今朝、自分は明るいうちに帰ると言って家を出たのに、今はもう九時だ。

 いや、帰宅が遅くなった言い訳などどうでもよい。そんなことよりも、妻はもう気付いているだろうか。姑の姿が見えないことに。

 悠太朗は廊下に上がった。

 まだ気付いていなければよいのだが。気付いていたとしても、自分が帰ってくるまで、何もせずに待っていてくれればよい。すでに警察に通報していたら……いや、彼女にそこまでの行動力はないだろう。まず自分に相談するはずだ。

 相談されたら、どう答えるべきなのだろう。

 今後のためには妻も真相を知っておく方がいいかもしれない。それが本家の嫁の務めだ。彼女には辛い思いをさせるが、仕方ない。

 仕方ないのだ。

 悠太朗はもう一度、「ただいま」といいながら廊下を進んだ。このとき初めて、小さな違和感を覚えた。

 妻は、由紀はどうして出てきてくれないのだろう。いつもなら玄関の戸の音で顔を出してくれるのに。雨のせいで、音が聞こえなかったのだろうか。いや、姑がいないとなれば、いつも以上に敏感になるはずだ。

 もしかして、探しに出たのか。この雨の中を?  

 悠太朗はにわかに焦燥感を覚えて、廊下を踏み鳴らし奥へ進んだ。

 突き当たりの居間の戸に手をかける。戸のすりガラスからは居間の中は見えない。

 このとき、悠太朗は手を止めた。どうしてためらうのか、自分でもわからない。すりガラスにある見覚えのないシミのせいだろうか。それにしてもこのシミは一体、いつの間についたのだろう。

 気をとり直すために息を吸った。

「父ちゃんが帰ったぞ」

 言いながら、戸を勢いよく引く。

 そして。

 目の前の光景に悠太朗は目を剥いた。

 自分を出迎えてくれるはずの妻と娘が床に倒れていた。

 由紀は頭を食卓の下にいれ、足を台所に向けてうつ伏せになっていた。頭の上に伸ばした手が食卓の脚を掴んでいる。もう片方の手は腹の下に隠れていた。

 娘は居間の座卓に下半身を入れたまま、仰向けで絶命していた。白目を剥いた顔が血で汚れている。娘の口から噴き出た血でカーペットは真っ赤になっていた。

 悠太朗は抱き上げた娘の両肩をゆっくりと床に下ろし、妻に駆け寄った。妻はまだ死んでいるのか分からない。死んでいないかもしれない。

「由紀、由紀、由紀」

 妻の名前を何度も読んだ。だが両脚は悠太朗の意志に反してもつれ、床に無様に転んでしまう。這ってでも進もうと、左手で床を押し、上半身を持ち上げた。

「由紀」

 やっと彼女の手をつかんだと思ったのに、悠太朗の左手は宙を掻いた。と、同時に上半身がどうっと床に落ちた。床板に顎を打ち付ける。痛い、と思った瞬間口の中に血の味が広がった。だが痛みを感じたのもつかの間で、身体の感覚は次第になくなっていった。

 こんなときにどうして。

 そのとき悠太朗の脳裏に浮かんだのは、半年前脳卒中で倒れた父親のことだった。

 妻の手に指先が触れたとき、悠太朗の意識は途切れた。

 底なしの暗闇だ。悠太朗はそこで永遠の眠りについた。