実が落ちる前に

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現在①-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

 母親に続いて焼香を済ませ、振り返ったら、今度は誰にしているのかよくわからない礼をする。母親と同じようにやっているつもりだが、上がり症の悪い癖で、何事もぴしっと芯が通らないうちにそそくさとやってしまう。相手の目を見て話すのが苦手、きちんと身体を向けてから頭を下げればよいのに、中途半端な身体の向きでふにゃりと上半身を曲げる。我ながら無様だと思う。格好悪い。

 紗江は頭の芯がかっと熱くなった。顔もきっと赤くなっている。だから今度はきちんと顔を上げないまま、ふにゃりと身体の向きを変えた。足元でさえたたらを踏むようで、ぴしっとしない。落ち着いてやればできるはずなのに、どうしてこうもテンパってしまうのだろう。葬儀の参列者全員の目が、自分の一挙手一投足に注がれているような気がした。そんなはずがないのに、自意識感情にも程がある。

 最後に親族席に向かって礼をする。この礼が必要だったかどうか。自分は喪主の親族で、いわば身内だから、実のところ礼は必要なかったのかもしれない。と、すれば一刻も早く顔を上げて席に戻った方がよい。

 頭を上げたとき、紗江は水城香と目が合った。いや、合わなかった。彼の顔は紗江に向いていたが、その目は茫洋としていて、どこを見ているんだか。

 少なくとも、彼は私を見ていない。

 紗江はそそくさと自分の席に戻った。席に座ると、ほっと息をつく。本日、一番嫌だった行事が終わったのだ。無意識のうちに手首から数珠を抜き、指先で一粒ずつ数珠玉を数えていた。

 頭の上を正信偈の意味の分からない文句が流れていく。紗江はこれまでそらんじるほど正信偈を聞いてきたが、一度も「どういう意味なのだろう」と思ったことがない。つまり、紗江にとっての宗教とはその程度のもので、そうなると昨日今日と続いたこの儀式も紗江にとってはそれほどの意味を持たない。

 焼香から続いていた動悸をようやく鎮めた後、紗江は手元から顔を上げ、彼の後頭部を見た。

 十七年ぶりに会った親せきのお兄ちゃんは紗江にとってほとんど他人だった。

 彼は入れ代わり立ち代わり焼香をする参列者に頭を下げ続ける。うなずくような小さな動き、一見、親族席に礼をする参列者の動きに合わせて頭を下げているようで、よく見ると、そうではない。ただ頭を動かしているだけ、別に参列者の動きを見ているわけでもない。

 他の人も、あの、どこを見ているのかわからない目で見ているのだろうか。

 そのとき、彼の頭が止まった。彼は半ば腰を上げたが、思いとどまったように椅子に座りなおした。

 紗江は焼香の列に目を向けた。

 宮本浜子が焼香台の前に立っていた。彼女は人の倍の時間をかけて手を合わせると、そのまますっと焼香台の前から退いた。親族席をちらりとも見なかった。

 故水城武朗の愛人を長年していた人だ。香にとっては因縁のある女性、もう八十を超えているはずだが、ぴんと伸びた背筋や紅で映えた唇の印象は以前と変わっていなかった。島でたまにすれ違うときにはさすがに年相応になったなと思っていたから、今日の彼女の装いには紗江は内心感嘆していた。

 どの面下げて、と紗江は呟く。と、同時に、「ちゃんと目を開けていたんだ」と思った。昔の彼とは違うのだ。興味がなくともちゃんと目を開けているし、思いとどまって座りなおしもした。あんなに落ち着きのない人だったのに。

 年上の男性に持つには少しおかしい感慨を、紗江は彼に対して持ったのだ。

 長い読経が終わると、親族たちが前に出て、棺に花を入れ始めた。

 武朗が最初に倒れたのは十七年前だった。その日のうちに、呉の病院に運ばれ、それきり島に帰ってくることはかなわなかった。

「すっかり面変わりしてしもうて」

 耳元近くでささやき合う声が聞こえる。

 武朗は焼く前から骸骨のようだ。組んだ赤褐色の手はほとんど骨と皮だけ。頬に詰めた綿のせいで顔が、お多福のように下膨れになっている。

 これが本当にあの本家のおじいちゃんなのか。

 頭蓋骨に干からびた皮膚が貼りついた禿頭とおかめのような下膨れ、これほどの不自然が当たり前の顔をして目の前に横たわっている。それなのに、生前の武朗の顔を紗江よりもよく知っているはずの周囲の大人は誰も指摘しない。おかしいと思わないのだろうか。おかしいのは自分の目か。

 よくよく考えてみれば自分は武朗の顔をちゃんと覚えていないのかもしれない。写真と自分の記憶がごちゃまぜになって、輪郭もぼんやり、曖昧だ。

武朗が入院したとき、自分はまだ小学生だった。武朗は本家にいつかない人だったし、そのくせ写真やポスターではやたら見る機会が多かった。

葬儀場の係の人から菊の花を受け取る。

武朗の頬を触る手、頭を撫でる手、紗江はそれに加わることはできなかった。生理的に触りたくなかった。紗江は棺の隅、武朗の足元に花を投げるように置き、さっさと棺から身を引いた。

ふと横を見ると、香が立っていた。

 喪主が棺のそばにいなくていいのだろうか。

 香はあいかわらず焦点の合っていないぼんやりとした目で、そのくせ眉間には皺を寄せていた。目の前の光景を見ているやら、いないやら。

 そのせいか紗江は声をかけるのをためらってしまった。そのうち合掌の声が聞こえ、壁際から棺のふたが運ばれてきた。香が手を合わせるのを見て、紗江は慌てて顔を伏せ、手を合わす。紗江の頭の上でごとっと音がした。棺の蓋がきっちりとしまったのを見て、紗江はほっとした。これでもう見なくて済む。

「男性の方、お集まりください」

 出棺の時間だ。

 邪魔にならないように壁際に避けたとき、宮田浜子の姿を見つけた。ちゃっかり親族にまじって武朗と最後のお別れをしたようだ。よくもまあ、と紗江は口の中でつぶやいた。

 男たちの手で棺が運ばれる。

 紗江は母親と大勢の参列者とともに一階におりた。玄関前には黒塗りの霊柩車が大きな口を開けて待っていた。

「やっぱりおらんね」

 母親の君江が周囲を憚るように紗江の耳元でささやいた。

「おらんて、誰が?」

「向こうの家よ」

 母親は不快そうに唇をへの字に曲げた。

 喪主である香の母親、紗江にとっては叔母の実家のことだ。

 十七年前、香は父親が起こした心中事件で家族をいっぺんに失った。それ以後、香は母親の実家に引き取られていた。

「こっちとはもう縁を切るということなんじゃろ」

「町の人のすることは、常識も情もあったもんじゃないね」

 母親はそう言い、一仕事終えた父親と一緒に焼き場に向かうタクシーに乗った。

 紗江は祖母を探した。大勢の参列者の中で小柄な祖母をいつのまにか見失っていた。

 助手席の父親が窓を開けて紗江を呼んだ。

「ばあちゃんはじいちゃんと一緒に行くけえ、ええよ。はよう、乗り」

 そう言われて、紗江は霊柩車を振り返った。たしかに、祖母は遺影を持った香の隣に寄り添うように立っていた。

「ばあちゃんにとっては兄ちゃんじゃ。いつかこんな日がくることは分かっていたんじゃろうが、思っとったよりショックは大きいかもしれんな」

 助手席から顔を出した父親に母親は憂うように言う。

「お母ちゃん、がっくしこにゃあええが」

 焼き場で最後のお別れを済ませた後、隣のブースに別の棺がやってきた。

 毎日、どこかで誰かが死んでいる。新聞やテレビでは多死社会という言葉を目にしたり、耳にすることが多い。次々運ばれてくる棺を目の当たりにすると、新聞やテレビが大げさでないことを実感する。焼き場不足も深刻で火葬待ちの死体が列をなしている。武朗だって、死んだのはもう五日前、やっと順番が回ってきたのだ。