実が落ちる前に

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現在①-2 御枷島(おとぎじま)野口歩

 焼いている間、紗江らは二階に移動して昼食をとる。昼食といっても、もう三時を過ぎていて、朝から何も食べていない紗江はかえって食欲がなかった。本当は、ビールでも注いで回った方がよいのかもしれないが、そういうことは苦手だ。仕方なく、弁当を食べているふりをする。箸の先でひじきの煮物をつつき、形ばかり口に運んだ。

 香が紗江のテーブルにやってきた。香は焼き場までついてきた参列者に挨拶をして回った最後に紗江のところにやってきた。両親と祖母は席を離れて、親せきの間を行ったり来たりしている。このテーブルには紗江しかいなかった。

「ひさしぶり」

 香は目を細めてそう言った。

 彼は紗江よりも二つ年上だから二十八歳、早生まれだから学年としては二十九のはずだ。大人になった彼は想像していた以上に昔の面影を残していた。猫に似た目、細く筋の通った鼻、薄い唇。そして、島生まれの男とは思えないほど白い肌。こめかみにうっすら透けて見える静脈さえ、あのころのままだ。

 本当にいとこなのかしら。血のつながりからいえば、彼と紗江はいとこ同士のはずだけど。

 多少なりとも血が繋がっているはずなのに、自分と似たところが何一つないいとこに紗江は十七年前と同じ不満を抱いた。母方の血が強かったということなのだろうけれど、香たちはああで、自分はこうで、なんだか自分だけが損しているような気がする。

 香は紗江の気など知らず、さっきまで父親が座っていた椅子に腰かけた。

「もう参ったよ」と香は、片手を髪に突っ込んでわしわしと掻き始めた。「今朝、顔を洗っている最中に、コンタクトが洗面台に落ちちゃって」

「えっ。コンタクト、落したの」

「そっ、落ちちゃったの。通夜の後、外すの忘れていたんだなあ。で、そのまま水でさーっと」

「ちょっと待って。コンタクトつけたまま寝たの? それ、やばいんじゃあ」

「それがさ、ほら、線香切らしちゃだめっていうじゃん。俺は別に気にしないんだけど、お宅のばあさんに昨日、さんざん念押しされたからさ。そこまで言われたら、俺もやんなくちゃいけないかなと思って、一晩寝ずの番を決め込んだんだけどね。でも、今朝聞いたら、あのぐるぐるってなった線香、あれ一晩もつんだって。なんだ、起きている必要なかったじゃん。まあ、結局寝たから別にいいんだけど。それで、コンタクト外すの忘れて寝て、で、このざまよ。眼鏡もってくるの忘れちゃったからさ、今朝からほとんど見えていない。このへんからすでにぼんやり」 

 言いながら、香は右腕を前に伸ばして宙にぐるぐると円をかきながら、「このへん」と指す。

「じゃあもしかして全然見えていないの? 人の顔」

「さっきも坊さんかと思って挨拶したら、知らないおっさんだったり」

 香は伸ばした右手を頭に戻した。

「葬儀場でまぎらわしい格好をしないでほしいよ。まったく」

「その人もやむにやまれなかったのだと思うけど」

「とんだ恥かいちゃった。まあ、別にいいんだけど、そんなこと。それよりも問題は収骨だな。つかめるかなあ。落としたらまずいよな。俺、この前もさ、つかみ損ねて落としちゃって」

「この前? 誰か亡くなったの?」

 紗江が聞き返すと、香は大げさな身振りで否定した。

「この前って言っても、昨日今日の話じゃなくて。あれ、何年前だっけな。最近、今西暦何年かが分かんないの。ていうか、自分の年齢すらあやしいな、ぱっと思いつかないや。頭を使っていないからなあ、最近。すっかりなまっちゃって。これがひと段落ついたら、少し頭を使うようなことをしなきゃな。ぼけそうだわ。フランス語でも習うかな」

 香はいいながら、手の平で自分の頭をばんばんと叩いた。そんなことをしたら、もっと馬鹿になるんじゃあ、と紗江は心配したが、香があまりに勢いよく叩くから、言いだすタイミングを見つけられなかった。

「そういえば」

 やっと手の動きを止めた香は、紗江の顔に目を向けた。といっても、本人の談ではどうやら何も見えていないらしいが。

「何年ぶりかな。街で会ったらきっとわからないな、お互い。紗江なんか、ずいぶん大きくなっているし」

 顔が見えないのだから仕方ないのだろうが、十七年ぶりに会う女性に対して、「でかくなった」というのはずいぶんな言い草、そこは嘘でも、「きれいになった」というべきではないか。

「見えてないんだからわかるわけないじゃん」

紗江はそういってから、鼻から息を吐き出した。そして、

「香はあまり変わっていない」

 別にほめてもけなしているつもりもなく、それが紗江の本心だった。香は変わっていないたしかに大きくはなったけれど、紗江自身も成長したから、お互いの目線のギャップはあのころと変わらない。香の顔はあのころのままだし、それに落ち着きのないところも、まんま昔と同じだ。

 それなのに、香は一瞬目を見開いた。

 何か変なことを言っただろうか。

 不安になった次の瞬間、香は口を右手で押さえてから、ぶっと噴き出した。何がそんなにおかしいのか、置いてきぼりを食らった気持ちで、紗江は肩を震わせて笑い続ける香を見つめた。

 本当に変わっていない。そうなのだ、昔からこういう男の子だった。一緒にいても、なんだか寂しくなる感じだ。

 笑い目の涙を指で拭うと、香はふと顔を曇らせた。

「十七年か」

 そういった香の目に浮かんでいるのは、目の前にいる紗江ではなかった。

 あの子のことを思いだしているのだ。

 紗江は久しく忘れていた感情を思いだし、呼吸が苦しくなった。見えない手がぐうっと胸を押さえつける。それが嫉妬だということを成長した紗江は気付いていた。

 紗江は生まれて間もなくさっちゃんと呼ばれなくなった。さっちゃんが新しく生まれたからだ。物心ついたときから、紗江はさっちゃんに嫉妬していた。

 さっちゃんは美人で、明るくて、わがままで、みんなのお姫様。生まれたときから死ぬまで。

 紗江は首を振って、不快な記憶を頭から追い払った。

「どうして向うの家は来んの?」

 紗江にとっては不快な話題を終わらせるために出した質問だったが、今度は香にとって不快な話題だったらしい。香は目に見えてしかめっ面になったが、すぐにはぐらかすような苦笑いになった。

「俺、嫌われているから」

「えっ、どうして」

「家族じゃないのに、家族づらしてきたからな。特にいとこの、紫には嫌われちゃった。まあ、もうどうでもいいんだけどね。当分、会うこともないだろうし」

「だからって」

 そんな子供みたいな理由で、親せきづきあいをおろそかにするなんて、紗江には信じられない。

「いいんだよ。家族水入らずがいいんだよ。向うは向うで、楽しくやっているさ」

「何それ」

 紗江は呆れたが、同時に少しだけほっとした。

 喪主の名は水城香になっていた。香は樋山家の養子に入っていない。そんな話を以前耳にしたことがあったから、紗江は彼が水城香のままでいてくれたことがうれしかったのだ。

 焼き場から一旦島の寺に行き、初七日を済ます。焼き場に行かず先に島に帰った組が寺に先回りして初七日の準備をしてくれていた。

 寺を出ると外は小雨になっていた。参列者に傘を持っている者はいない。寺まで残っていたのは全員島の人間だったから、参列者たちは喪服の肩を雨粒で濡らしながら、それぞれの家に足早に帰って行った。

 香は寺の門で全員を見送ると、やっと肩から力を抜いた。

「おつかれさま」

「ああ、長かった」

 言いながら、目をこする。さすがに疲労が顔ににじみ出ていた。

 紗江はその様子を横目で見ながら、

「近いうちにまた帰ってくるんでしょ?」

「うん。役場に行かなきゃいけないし、家の片づけもあるし。墓のことも。四十九日の前には帰ってくるつもり」

「本家にはいつでも泊まれるよ」

 この十七年間、住む人がいなくなった本家を祖母と母は守り続けた。事件後、焼けた納屋の片づけをし、空気の入れ替えを毎日欠かさず、週に一度は掃除に通った。家も庭もあの頃のままだ。唯一違うのは、納屋があった場所が空き地になってしまったことだ。

 香の口から「ありがとう」の言葉はなかった。呆けたような顔を前に向けている。今は掃除や家の維持のことまで頭が回らないのだろう。雨に濡れることもいとわず、ふらふらと歩く足取りはどこか危なっかしい。

「足元気を付けてよ。ここから階段だからね」

「えっ」香はぎょっと足を止めた。階段に気付いていなかったようだ。

「待って。手すり持つわ」

 香は階段の端まで行って手すりを持った。

「本当に全然見えていないんだ」

「漫画の読みすぎだな。あとはゲーム」

「そんなにゲームしていたっけ?」

「向こうの家でね」

「あっ、そうなんだ」

 紗江はパンプスのつま先に目をやった。

「といっても、その前から悪かったんだけど、最近ますますね。老眼かな」

「老眼は早すぎるでしょ、さすがに」

「でも、最近どんどん見えなくなって。元々近視だったのに最近は遠くも近くも見えない。看板の角に頭をぶつけて死ぬんだ、俺」

 しゃべり出すと止まらない性質の香でも、さすがに今日一日のスケジュールは身にこたえたらしい。しばらく黙り込んだまま、フェリー乗り場への道をたどっていく。家々が密集する細い路地を抜けると、海岸沿いの道路に出る。雨を含んだ海風が顔にまともに吹きつけてくる。香は喪服の袖口で顔の水滴をぬぐった。

 紗江は唇をなめた。潮の味がした。

「おじいちゃん、急だったね」

 紗江は昔から本家の当主を「おじいちゃん」と呼んできた。自分の祖父母は「じいちゃん、ばあちゃん」で、本家の方は「おばあちゃん」だ。それでも紗江には全く違和感がなかった。

 紗江は分家の娘だ。だが、紗江の中で本家と自分の家の境界線がはっきりしない。それは母も祖母も同じだと思う。

「ああ、うん」

 香は額に貼りつく前髪を指先で剥がしながら言った。今までの話題と違い、この件はあまり気のりしないようだ。いや、話したくないというよりも、今は説明するのが面倒なのかもしれない。香はしきりに濡れた髪や顔を気にしている。

「ずっと寝たきりだったんだ。十年前の脳梗塞で右半分に麻痺が残ってね。まあ、それまでも何回も血管切れちゃっていたから、手なんかには麻痺があったんだけどね。十年前ので太い血管がぶちっといっちゃったみたいで、あれっきり起き上がれなくなったなあ。でも寝たきりといっても意識はしっかりしているだろ。だから本人もストレスがたまるみたいでしょっちゅう癇癪起こしてはそのへんのものを手当り次第投げてきて……。でも、やっぱり人間って、ずっと寝ているとだめだな、みるみるうちにぼけちゃった。俺の顔なんか真っ先に忘れやがったからな。最後は、風邪ひいて、咳がひどくなって、のどに痰がつまって死んだ。散々大病して、最後はそれなのって、びっくりしちゃった。人間死ぬときってあんなものなんだな。しぶといジジイだと思っていたけど、まさか風邪で死ぬとはなあ」

「そうだったんだ」

 紗江は、癇癪を起こして香にものを投げつけるおじいちゃんの姿や、ぼけたおじいちゃんの姿を思い浮かべようとしたが、だめだった。かすかに残る記憶がおじいちゃんをぼけ老人にするのを邪魔するのだ。

 香は、あのころのおじいちゃんを覚えているだろうか。

 島中の人に慕われて、島の顔だった頃のおじいちゃんを。人の記憶はあてにならないものだから、覚えていないかもなと思った。

 

「紗江ちゃんの家は皆A型なんだっけ」

「ばあちゃんとじいちゃんはABよ」

 沙紀はふんふんとご機嫌そうに鼻歌を歌いながら、本のページをめくった。週刊雑誌の付録についていた性格診断の本だ。紗江の本なのに、いつのまにか沙紀の手に渡っている。どういうやりとりがあってこんなことになったのか、紗江はもう覚えていない。ただ、いつもこんな感じで、紗江は沙紀に楽しいこともうれしいこともすべてもっていかれるのだ。紗江がまだ開いたことのないページを沙紀はぺらぺらとめくった。