実が落ちる前に

自作小説を公開するブログです。暇なとき、読んでいただけたらうれしいです。小説は作品ごとにカテゴリー分けしています。日記や雑文はその他カテゴリーです。

現在①-3 御枷島(おとぎじま)野口歩

 紗江は横目で自分の本を見ながら、ノートを開いた。表紙の裏にペンで十文字を描き、四等分する。それぞれに血液型と名前を書き始めた。ほんの思いつきで始めた作業だった。

 沙紀はA型のページを開くと、文章を指でたどりながら、

「A型の性格はね」

 と、読み始めた。

「羽目を外さない優等生。争いごとを避けるために自分を抑えてしまう。周囲に気配りができてサービス精神が旺盛。ふーん、つまり外面がいいてことか」

 あまり良いことが書かれていなかったから、紗江はがっかりした。しかも最後に沙紀に身もふたもない言い方をされる。 

「へえ、紗江って、気い遣っているんだ。全然、そんなふうに見えんよ。これ本当に当たっとるん?」

 沙紀はいつだって無邪気だ。紗江は自分のことは脇に置いて、

「父ちゃんはそうかな。でも母ちゃんは違うよ」

「おばちゃん、強いもんね。おじちゃんはいつも黙ってにこにこ」

「ABは?」

「AB型は芸術家気質で、夢を追うタイプ。繊細で傷つきやすく、我慢は苦手。他人の干渉は大嫌い」

 紗江は祖母を思い浮かべながら聞いていたが、当たっているのかどうか分からなかった。よくよく考えてみれば、紗江にとって祖母は昔から祖母でしかなく、じゃあ祖父はというと、いつも祖母の尻に敷かれて言いなりだった印象しかない。祖母も紗江の前ではばあちゃんとしての顔しか見せない。祖母を一人の人間として考えたとき、祖母の好きなことも嫌いなことも何も知らないことに今更ながら気づく。好きなことといえばあれだ、神社仏閣巡りだ。一人でひょいと出かけては、お守りやお札を買って帰るのだ。

 そんな祖母にも夢見る少女の時代があったのだろうか。

 想像してみようとしたが、すぐにしわくちゃの顔が浮かんできて紗江の思考を邪魔した。

「さっちゃんのとこはどうなん? さっちゃんはB型じゃったよね」

「ママと私がB。えっと何々、Bはマイペースで楽天的。他人の気持ちに対して鈍感で、無神経だって。ええっ、何これ、悪口ばっかじゃん。これ書いた人の奥さんがB型なんだよ、絶対そう」

 沙紀は拗ねて片頬を膨らませた。

 紗江はBの枠に沙紀と叔母の名前を書きこみながら、口には出さないが、けっこう当たっているなと思った。

 沙紀はこの島のお姫様だ。学校でも親せきの集まりでも沙紀はいつも輪の中心にいる。本家の娘だからというのももちろんある。もちろんあるけど、沙紀の場合、それだけではない。そのそれだけではない部分が、紗江にとっては羨ましくて仕方ない。

 かわいらしくて、天真爛漫で、甘え上手。沙紀はただ道を歩いているだけで、道行く人の視線を釘づけにする。沙紀のわがままに辟易している紗江でさえ、かわいらしい姿に見とれて声をかけられなくなるときがある。

 ずっと、小さい頃から、自分は沙紀の影だと紗江は思っていた。同い年のいとこ同士で、家は隣、名前も紗江と沙紀の一字違い。それでいて、性格は陰と陽、器量に至っては比ぶる由もない。家だって、本家と分家だ。

 まるで光と影のよう。

 紗江は長い間そう思ってきた。この先もずっと自分は沙紀の影だ、と。だが、成長した沙紀の姿を想像するとき、紗江は暗澹たる気持ちになる。ヘッドライトのハイビームをまともに見たら、自動車の前にいる自転車に気付かない。影ですらなくなるのだ。

 さっちゃん。

 紗江は十二月生まれで沙紀は三月生まれ。早く生まれたのは紗江の方で、沙紀が生まれるまではさっちゃんは紗江だったと聞いている。それなのにいつの間にかさっちゃんは沙紀になっていた。母親でさえ、もう紗江をさっちゃんとは呼ばない。沙紀と一緒にいると、自分の存在が朧になっていく。

 沙紀の華奢な指先が本のページをゆっくりとめくる。沙紀が目を伏せると、長い髪がさらりと落ちた。沙紀は鬱陶しそうに髪を小さな耳にかける。形のよい鼻筋を指でさすりながら、沙紀はおかしそうに笑った。

「パパはA型。でも性格はおばちゃんとは正反対。本当に姉弟なんかねえ。お兄ちゃんは」

 そのとき紗江は息苦しいような胸の痛みを覚えた。お兄ちゃんと言うときの沙紀の甘ったれた声に激しく嫌悪する。

 お兄ちゃんは自分一人のものだと言いたいのだろうか。沙紀だけのお兄ちゃんじゃないのに。

 今年のお盆でのことだった。お盆は親せきが本家に集まる。親せき揃って三神島へ墓参りをした後、本家に帰って宴会をするのだ。今年も例年通りだった。親せきのおじさん達は早々に酔っ払い、悪のりした一人が子供たちに芸をやらせようとする。「はい」と真っ先に手を上げてみんなの前に立つのが沙紀だ。沙紀は得意顔でマイクを握ると、昭和のアイドルをまねて歌いだす。沙紀はおじさん達のつぼもちゃんと心得ている。

 沙紀が皆の拍手を集め始めると、紗江はテーブルの端で一人置き去りにされる。一旦、沙紀の手にマイクがわたると、自分の番がこないことは分かっている。別に歌いたいわけじゃないからいいけれど。つまらなくなってジュースを飲みながらぼんやりと沙紀を見つめていたとき、背後から名前を呼ばれた。振り返ると香だった。

「いい加減、飽きるよな。もう腹もいっぱいだし。外に出ない?」

 香は心底うんざりといった顔だ。言い終わるやいなや、もう紗江に背中を向けて座敷から出ていく。

 香が宴会の最後まで我慢できないのはいつものことだ。でも、いつもは一人で出て行ってしまうのに、今日は紗江を誘ってくれた。

 紗江はうれしくて、縁側から庭に出る香に遅れまいと急いで靴をとりに勝手口に向かった。スニーカーの紐を結ぶのももどかしく、つま先でトントンとしながら踵を無理やり靴に押し込む。そして、勝手口のノブをまわして外に飛び出そうとしたとき、

「紗江、私も一緒に遊ぶからね」

 振り向くと、沙紀がにこにこと笑いながら立っていた。

 紗江は名状しがたい不快感を覚えた。いつもは我慢できる苛立ちをその日は抑えられなかった。

「さっちゃんはあっちに行って」

 おっさん相手に歌でも歌ってろ、とまではさすがに口に出さなかった。それくらいの理性は紗江には残っていた。それなのに、だ。沙紀の顔がみるみる赤くなった。目に浮かんだ涙がぷっくりと膨らみ、次々にこぼれ始める。

 呆気にとられている紗江の前で沙紀は泣きじゃくり始めた。

 何事かと、紗江の母親が台所から顔を出す。

「あんたら、何しとるん」

「紗江が私だけを仲間はずれにする」

「紗江、あんた」

 紗江はみなまで聞かず勝手口から飛び出した。そこは裏庭で母屋をぐるりと回ると表の庭に出ることができる。しかし紗江は裏門から敷地の外に出た。座敷の狂騒を耳にするのが嫌だったからだ。門の方に歩き始める。母親は外までは紗江を追いかけてこない。香はまだ紗江を待ってくれているだろうか。あの一時も落ち着いていられない香が。

「お兄ちゃんはね」

 沙紀の声に紗江ははっと我に返った。

 沙紀はページをめくりながら、くくっと笑う。

 そのとき、紗江はおかしな光景を見た。

 沙紀の白い指に赤い線が走ったのだ。本のページが端から赤く汚れていく。

 紗江の本なのに、沙紀が汚した。

「何すんの、汚さんでや」

 紗江は沙紀の手から本を取り返した。

 沙紀は「えっ」と顔を上げた。紗江の突然の反抗に沙紀は驚いていた。きょとんとした顔で紗江を見る。その彼女の首から血がふきだした。

 顔にかかった血は温かかった。紗江は思わず、後ずさる。沙紀は血を振り撒きながら紗江を追いかけてきた。

「紗江、どうして逃げるん」

 走りながら繰り返す、その間も沙紀の首は血しぶきを上げていた。

「いや、こっち来んで」

 紗江は全力で駆ける。

 小さな石に躓く。よろける。背後から髪をつかまれたとき、紗江は悲鳴を上げた。