実が落ちる前に

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過去① 御枷島(おとぎじま)野口歩

 夕方、薄暗い台所。二人掛け用の小さなテーブル。テーブルの上には飲みかけの湯のみ、朝刊、ちらかったチラシ。そして灰皿。灰皿には吸殻が山となっている。落ちた灰がテーブルを汚している。

 台所と続き間になった居間にはガラス戸がある。ガラス戸にかかったカーテンの隙間から長い日差しがしのび込む。夕暮れどきは空が真っ赤でまるで燃えさかる火のようだ。居間に赤い一本道ができて、それが香の足元まで伸びている。

 テーブルには安っぽい丸椅子が二脚。一脚には香が腰掛けていて、もう一脚はテーブルの下からはみ出して、台所の隅にまで追いやられている。

 香は右手で頬杖をついている。右手の指先には煙草。一体、何本吸っただろうか。灰皿を見る限り、いや手元の空き箱を数えてみれば、なんとなく想像がつくもの。それなのに今だに香の頭にこれという数字が浮かんでこないのは、現実逃避か、あるいはそれだけ頭が馬鹿になっているということだ。

 左手には一枚の書類。今朝方届いた鑑定書だ。封筒はいつの間にか足元に落ちている。

 香は頬杖をついた顔を書類から背けて、隣の居間の方を向いている。

 視界全体がぼやけている。煙草を唇に持っていく。手元から落ちた灰がテーブルの上に積もっていく。香は左の袖口で灰を床に落とした。

 寺の鐘の音が聞こえてくる。烏が「あほう」とないている。香もつられて、「あほう、あほう」と小さくつぶやいた。

 気づくと、鐘の音は聞こえなくなっていた。

 香はやおら立ち上がる。血圧が下がる。たたらをふんで、両手でテーブルを押した。丸椅子が床に倒れる。その音に驚いて、床を見下ろした。そして、「ああ」とうめいた。

 香は倒れた椅子をまたいで、戸棚の引き出しを開けた。通帳や印鑑袋の奥から一枚の写真を取り出す。テーブルに戻りがてら、椅子を起こした。

 元の位置におさまってから、また同じ姿勢で、だが視線だけはテーブルに落とす。焦げる匂いがする。煙草で髪の毛が焦げているのだ。香は煙草を灰皿に置き、再び写真をじっと見つめた。

 台所はまた一段と暗くなっていた。香は眇めるように目を細めた。

 この写真を取り出したのは三年ぶりだ。三年前、彼が退院したときの荷物の中でこれを見つけた。彼がこんなものを持っていたのが意外だったから、懐かしさよりも驚きの方が勝った。どうしてこんなものをと問いかけてみたかったが、もう遅すぎた。彼は何もしゃべれない。

 あのときの自分の感覚は、今思いだしても不思議だった。写真の中の人物に、それは香のよく知る人だったのに、初めて会ったような気がしたからだ。それはとても失礼な話だし、人でなしと言われても仕方ないような話だった。自分の父親と祖母の顔を忘れていたなんて。そりゃあ、もう十七年も顔を見ていなかったけれど、でも親の顔を忘れるほどぼけているつもりはなかった。

 前髪を手でくしゃりとつかむ。顔にかかる前髪を手でかきあげる。

 写真の中には父親と祖母が立っている。

「屈託ない顔してるなあ」

 父親に語り掛ける。写真に話しかけるなんてこと、自分がするとは思いもしなかったから、語りかけながら、くすぐったい気持ちになった。

「俺はどう? あの頃と変わったかな」

 香はテーブルに顔を突っ伏した。こみ上げる笑いで肩が震える。

「何も変わりゃしないか」

 いい方に転ぼうが、悪い方に転ぼうが、結局何も変わりゃしない。

 それはそれでどうかと香は不面目な気持ちになった。

 親指を少しずらす。彼の顔がのぞく。また親指で彼の顔を隠した。

 鑑定書に目を戻す。

 どうして急にこんなことを思いついたのか。急に、いや、今更だ。祖母らしき骨が海から見つかったからか……それならば、今すぐ警察に連絡すべきだ。警察は骨の身元を知りたがっている。

 香はスマホに手を伸ばしかけ、引っ込め、頭を掻きまわした。

 警察に保管されている骨を持ち帰ったところで頭の上のもやは晴れない。香の望みはそんなところにはない……だから、重い腰が上がらない。

 では、自分の胸にとどめておくべきか。骨はこの際捨ておいて。元々香には、祖母の骨を見つけることにはそれほどの熱意はない。

 煙草をまた一本取り出す。 

 ライターをテーブルに置き直したとき、背後のドアが開いた。と、次の瞬間、ぱちんと音がして天井の明かりがついた。

「電気くらいつけなさいよ」

 仕事帰りの恵理はスーツ姿で、メイクはほとんど落ちていた。一日働いて疲れた人の顔だ。ご苦労なことだ、と香は煙草をくわえた。

 目の前にスーパーの袋。恵理は腰に手を当て、ふうっと疲れた溜息をした。

「おじいちゃんのご飯、もう終わったの?」

 香はテーブルに顔を伏せた。

「やりたくない」

「はあ?」

 予想通りの反応。顔を上げなくても恵理の呆れた顔が目に浮かぶ。

「今、そういう気分じゃない」

「何、言ってんの? 正気?」

「一日、寝ているだけなんだ。一食くらい抜いたって死にゃあしねえよ」

 また、恵理の溜息。こいつ、溜息ばかりついているなと香は思ったが、さすがに口に出す度胸はなかった。

「そんなの、香だって一緒じゃん」

 恵理の嫌味。香は思わず笑った。

 食事の支度の音が聞こえはじめてから香は顔を上げた。見ると、介護用のレトルト食を鍋であたためる恵理の後ろ姿があった。恵理に何を言われようと、とりあえず、彼の食事をしてくれたらそれでいい。

 香は新しい煙草に火をつける。一口吸って、少しむせた。

「吸いすぎじゃないの。今日何本目?」

「さあ、どうだったかな」

「何箱目って聞いた方が早いか」

「うるさいなあ、ほっとけ」

「じゃあ、もう言わない。私の知ったことじゃないし。香が肺がんになろうと早死にしようと」

「そうそう」

 香はそう言いながら、テーブルに投げ捨てていた写真を手に取る。明かりのおかげでさっきよりもいくらかましに見える。しかし、目鼻立ちまでは見えない。三人の姿を数えられる程度だ。

 そのとき、台所に向かっていたはずの恵理から「それ、何の写真?」と訊かれた。思いがけない声かけだったから、香はびくっとした拍子に写真をテーブルに落とした。顔を上げると、いつの間にか恵理がテーブルのすぐ脇に立っていた。

 恵理がテーブルに手を伸ばす。そのとき、香は鑑定書がまだテーブルに出しっぱなしになっていたことに気付いた。恵理の指先が写真と鑑定書の間で迷うように揺れる。香は「げっ」と、恵理の目の前から鑑定書をかっさらった。顔を上げると、恵理のうさんくさそうな顔。香はごまかし笑いを浮かべながら、床の封筒に右手を伸ばす。

「その写真、誰だと思う?」

 香は鑑定書のことを恵理の記憶から抹消するために、恵理の注意を写真に向けさせる。目論見通り、恵理は写真に手を伸ばした。

「私の知っている人?」

「じいちゃんだよ。その右にうつっているの」

 言いながら、左だった気もしてきたが、まあどちらでもいいことだ。とにかく、今は恵理の注意が写真に向いているうちに封筒に鑑定書を入れてしまおう。

「えっ」

 恵理の目が一瞬大きくなる。無理もない。恵理は倒れた後の彼の姿しか知らないから。彼が昔は、それなりにえらかったことなんて、香は一度も話したことはなし。

「昔は県会議員やっていたんだ。何期やったんだっけ。覚えていないけど。本人は覚えているのかな」

 写真は彼が何期目かの当選を果たしたときの祝賀会で撮影されたものだ。彼の隣にはおめかしをしたばあちゃん、そしてばあちゃんを支えるようにして父親が写真の端にうつっている。

 そうかと香はやっと合点がいった。彼は親子写真を持ち物に入れていたわけではない。

自分の栄光を肌身離さずもっていただけだ。香は長年の疑問がやっと解け、喉のつっかえがとれたような安ど感を覚えた。だって胸糞が悪いだろう。彼が人並みの愛情を自分の家族に持っていたとしたら。

「じゃあ、一緒にうつっているのは、香のおばあちゃんと」

「父さんの親子」

 言いながら、香は封筒を尻の下に敷いた。

 恵理は二度目はさらに目を大きくした。瞬きもせず、写真を凝視している。

「へえ、これが香のお父さん。母親似だね」

「そうそう。俺は母親の血の方が」

「そうじゃなくて」と恵理は香を遮った。

「香のお父さん」

 恵理の言葉に今度は香が驚く番だった。驚きの後に、今度は突然おかしさに襲われた。香は我慢できず、噴き出してしまう。その後、テーブルに顔を突っ伏して、しばらく笑いの波にのまれたままになっていた。だって、こんなにおもしろいことはない。あの二人が似ているなんて、今まで誰も言わなかった。

「何なのよ、もう。煙草の吸いすぎでとうとう頭がおかしくなったんじゃないの」

 気分を害したような恵理の声。それを頭の上で聞きながら、香はまだ笑いを止めることができなかった。

 食事を持っていった恵理は、三十分ほどで彼の部屋から帰ってきた。その後、恵理が作ったインスタントラーメンを二人で食べた。ラーメンにはキャベツやらもやしの山。香は頬杖のまま、箸の先でその山をつき崩す。

「前も言ったけど、私、来週からいないからね」

 香は頬杖をやめて、顔を上げた。

「何、その『えっ』っていう顔」

「だって、聞いていない」

「言ったじゃん。何回も繰り返し。ひとの話、全然聞いていないんだから。来週から彼と旅行だから、ここには来れません。おじいちゃんを餓死させないように気をつけること」

 鼻先に人差し指をつきつけられる。香は上半身をのけぞってから、この前恵理が来たときのことを思いだそうとした。この前といっても、たった二日前、でも記憶は曖昧で、恵理がどんな顔をしていたのかも覚えていない。

「ああ、そうだったな」

「覚えていないくせに、さも思いだしたかのように」

 恵理はそういって、何回目かの溜息をついた。

 恵理が帰った後、香は庭に下りて、洗濯物を取りいれた。夕方、取りいれなきゃいけなかったのに、今日はいろいろなことがあったから、すっかり忘れていたのだ。恵理を玄関まで見送ったとき、視界の端にうつった白い影に思わず髪をかきむしった。

 外はもうすっかり夜で、洗濯物は冷たかった。

 香は十枚のタオルを両手に抱えたまま、顔を空に向けた。

 月だ。

 香は目を細めて、月を見た。

 月が二つ見える。二重に見える。でも、確かにそこに、手を伸ばせば届きそうな場所に月はある。

 俺がほしいのはあの月だろうか。

 香は自問自答した。

 自分には何かが足りないと、ずっとそう思って生きてきた。 

 過去か、あるはずだった未来か。愛か、人情か、優しさか。

 何かが足りない。足りない何かのせいで、自分はいつも焦っている。

 やはり、あの月だろうか。

 香はもう一度、夜空を仰いだ。

 ああ、届きそうだ。手を伸ばせば、あれはたしかにそこにある。