実が落ちる前に

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現在②-2 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

「お前は猫か」

 香は縁側まで来ると、手の平を縁側にかざすようにして、

「さっきのどうやってやったんだ? このくらいは浮いていたぞ」

 紗江はむっとして、

「そんなの……香の目の錯覚でしょ」

「そうかなあ。まあ、どうでもいいけどさ。どっちにしても、年頃の娘がこんな外から丸見えの場所で寝転んでいちゃだめだろ。まあ、紗江を襲う奴なんかいないだろうけど。あっ、これは、そういう意味じゃなくてな、島にはそんな不届き者はいないってこと。といっても、俺、ここのことなんか何も知らないんだけどさ。そうそう、さっき」

 このまま聞いていても埒が明かないから、紗江はいい加減なところで打ち切った。

「歩いて帰ってきたん?」

「へっ? いや、フェリーで」

 紗江だってまさか泳いできたとは思っていない。

「そうじゃなくて車は? 持っていないん?」

「悪かったな、貧乏で」

「そういうんじゃないけど。ただ、困るかもよ」

 実際、島で車のない生活は考えられない。もちろん小さな島のことだから、歩いて行けない場所はないけれど、歩いて回る分には島は広い。香だって今回はいろいろと用事があるはずだ。島での足はどうするつもりだろう。フェリーで本土に渡っても、そこからの足がなければやはり不便だ。

 もう一つ、紗江の心に引っかかったことがあった。

 香が貧乏なはずがない。本家の財産は、香一人が相続するのだから。武朗の介護にお金がかかったとしても、まさか本家の財産すべてを食いつぶすほどではないはず……だけど。

 紗江の心配もよそに香は庭の中を一周し、最後に門の前に立った。まぶしそうに手で目の上に庇を作り、母屋の瓦屋根を見上げる。そして、何かを思いだしたように横に目を向けた。そこは昔、納屋があった場所だ。今は何もない。紗江の母親が定期的に草を抜いているから、文字通りの空き地になっている。

「思っていたよりも狭いんだな」

 香は感慨深そうにつぶやいた。どこか切なさのある声だった。彼のそんな声を聞くのは初めてだった。

 香は母屋の入ると、まずザックを下ろした。一息つくまもなく、上座にあがる。仏壇の前には武朗の骨と花、それに供え物のリンゴがあった。悠太朗と妻子、三人の写真もある。だが写真立てに入れた三枚のスナップ写真は、今は武朗の大きな遺影に隠れて見えない。

 香は仏壇の引き出しから線香を取り出し、火をつけた。紗江も香の後ろに正座する。

 目を閉じると、風の音か、どこからかざわざわと音が聞こえる。

 家は正直だと思う。香が帰ってきたとたん、この家は生き返ったようだ。祖母や母親の手にあったときには、物音一つ立てず静まり返っていたくせに。古ぼけて見えた梁や襖までが、急に呼吸を始めたように感じた。

 振り向きざま、香はハイテンションで島がいかに変わっていないかについて熱弁をふるい始めた。あまりに突拍子もない彼の発狂に、紗江は久しぶりのことだったから少し戸惑ったが、「そういえば、こんな人だった」と思い直した。香は大げさな身振り手振りをまじえながら、

「びっくりしちゃったよ。何も変わってねえの、本当に何も。フェリーの時刻表まであの頃と同じなんだから。切符売りのおばさんは変わっていたけどね。まあでも、あの頃だってもうおばさんというよりおばあさんだったもんね。えっ、あのおばさん、死んじゃったの。あらまあ、それはそれは……でも、そりゃあそうだよなあ。俺が島を出たのなんて、あれ? 何年前だ。えっと、十……六、七年か。十七年も経ってりゃあ、そりゃあ、ばあさんが死んでいても仕方ないよな。そうそう、変わらないといえば、山田のおばさん、あれももういい加減、ばあさんか。さっきそこで会ったんだけどさ、全然変わんないのな。相変わらず、三つ編み垂らし」

 言いながら、香は手の甲で口を隠して、くすくすと笑った。

「香の方こそ変わっていないじゃん」

 香は紗江の皮肉には気付かず、

「それ、さっきも言われたわ。『相変わらず調子がいいじゃけえ』って」

 山田のおばさんの口ぶりをまねながら、香は右手で紗江の腕をぱんぱんと打った。それも、山田のおばさんにされたのだろう。

「よかったね、ほめられて」

 これだけ言っても、香はいっこうに紗江の皮肉には気付かない。

「山田のばあさんにほめられてもね」

 言い終わるやいなや、香は突然右手をばたばたと上下させる。ぎょっとする紗江に香は、きらきらとした目を向けて、

「ガキの頃はこんなに見えていたけど、今見るとあれだな、そうでもないというか、ちょっともの哀しいという気持ちになっちゃった」

「えっと、何が」

「いやいや、ほらあるじゃない。大人になって久しぶりに見るとさ、スケールが覚えていたのと違うみたいなこと。島もそうだし、フェリーもさ、みかんの樹一本にしても、それにこの母屋も納屋の跡も、昔はこんなにでっかく見えていたけど、改めて見ると、ちょっと拍子抜けみたいな。『あちゃー』というか、見ちゃいけないものを見ちゃったみたいな気分にさせられるね」

「そんなにちっぼけに見える? この島が」

 香の言い草に、紗江はむっとした。紗江にとっては、子供の頃から変わらない島だし、ここが紗江にとって世の中の全てといっても過言ではないから、「小さい」を連呼されると頭に来るのだ。

 香は紗江の気も知らず、

「そうだね。いいっちゃいいんだよ。小さいからこそ、愛しくなるというか、かわいく見える。少しでも何かしたらこわれちゃいそうで」

「ふーん」

 紗江の反応が冷淡だったっからというわけでもないのだろうが、香は言いたいことをすべて言いつくしたような呆けた顔で天井を見あげていたが、何を思いついたのか、いきなり顔を仏壇に向けた。そのまま、一秒二秒、香は固まった。

「なあ」

「何?」

「どうしてここにじいちゃんの骨が? 俺、持ってきてないぞ」

「そうだね、お寺に忘れたもんね。あとで、ごいんげさんがうちに持ってきてくれたよ。あのときのばあちゃんの顔を香にも見せたいくらい。骨を忘れて帰るやつがあるかってばあちゃん、そりゃあもう、かんかんで」

 香は右手で目を覆い、眉間を指でつまむ。

「今夜、うちに来いって」

 そもそも、紗江はこれを言うために彼を待っていたのだ。

「えっ、まじ?」

 今度は香は両手で頭を抱えた。

「骨を忘れたりするけえ」

 香はぐしゃぐしゃと指先で髪をかきむしってから、額に手をやった。

「紗江んとこ、おばさんもおっかないからなあ」

「人の母親をそんな、鬼みたいに」

「俺、婿養子にだけは入らないって決めているからね。紗江んとこ、見て。家付きは手に負えないじゃん。紗江は相手を探すの苦労するだろうね。家付き二人じゃあ、男が逃げ出す」

「結婚なんて、そっちの方が難しいんじゃないの。こんな島に来てくれる奇特なお嫁さんがおればええけど」

「俺、ここには戻らないよ」

「えっ?」

 紗江は一瞬、しびれた足の痛みを忘れた。

「そんなこといったって……この家はどうするつもりなの」

 香の視線が紗江から逸れた。すっと横に動き、ふっと上を見上げる。何を見ているのかと、紗江は彼の視線を追って肩ごしに下座を見た。視線を上げる。

 香が見ていたのは鴨居の上に並んだ当主代々の遺影だった。

「売る」

 香にしては、珍しく簡潔な言い方だった。そう言うと決めていたかのような言い方だった。

 紗江は思わず腰を浮かせた。

「売れるわけないじゃん。こんな島の」

 紗江は続けて、「馬鹿じゃないの」と言いかけたが、それはさすがに控えた。だが、脳裏には「バカ息子」とのたまった彼の父親の声が浮かんだ。あれは、いつ聞いたのだろうか。よく思いだせない。それとも、特別な言葉ではなく、しょっちゅう言っていたのかもしれない。

「五年くらい前かな、老人ホームにどうかっていう話があったんだ。あのときは、聞いている方がいい加減、ぼけ老人だったから全然話が前に進まなかったんだけどね。まあ、じいちゃんが生きている間はどちらにしろ、無理だっただろうから、ぼけていてもぼけていなくても、結果は一緒か。じいちゃんが死んだ後、またその話が再燃して。ほら、ここはあったかいし、静かだし。ぼけ老人が脱走しても袋の鼠だし。島でまとまった土地っていったら、うちかみかん畑くらいしかないだろ。ここなら平地だし、山の斜面をこれから造成するよりは安上がりだ」

 似たような話を父親から聞いたことがあった。そのときは父親が経営している会社の今は使っていない土地を売ってくれという話だった。父親はその話を断った。祖母が反対したからだ。

「本気で言っているの?」

「冗談でこんな話はしないだろ。口が曲がるよ」

「ばあちゃんが許さんよ」

 香の顔に一瞬、嘲笑が浮かんだのを紗江は見逃さなかった。

「この家の跡取りは俺だよ。七十年も前に養子に出た人間が口出すことじゃない」

 香は今度は屈託のない笑顔で言った。冗談のつもりだろう。笑うところなのかもしれない。だが、紗江にはそれができなかった。ひどく傲慢な響きに聞こえた。

 十七年も放ったらかしにしていたくせに、帰ってきたとたん、主気取りなんて。その間、家を守り続けてきた祖母や母の気持ちを考えたことがあるのか。

(本家はいつもそう。こっちの気なんてこれぽっちも考えんよ)

 いつか母親が言っていた。

(してもらうのが当たり前になっとるんだから)

「何怒ってんの?」

 紗江が急に黙り込んだせいか、香は両手を畳について、不思議そうに紗江の顔を除きこんでいる。

「別に」

「ふーん」

 それ以上追及する気は起きないらしい。香は「よっこらしょ」と腰を上げてから、座敷を出た。自分の話をするときにはああのくせに、人のことはお構いなし、昔からこういう人だった。

 紗江は頭を横に振ってから苛立ちを振り払った。縁側の戸と襖を閉め、香のあとを追って座敷を出る。最後に襖を閉めようとしたが、最後の二枚だけはきっちりと閉まらなかった。一センチの隙間があく。

 家がゆがんでいるのだ。

 しばらくがたごとしてみたが、最後にはあきらめて台所に向かった。

 

 一休みした後、香は墓参りに行くと言って腰を上げた。葬式のときはばたばたして線香もあげられなかったという。紗江も一緒に外に出た。