実が落ちる前に

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過去② 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

 武朗のむくんだ手をさする。気持ちがよいのか、天井に向けて開いた口からよだれが垂れている。

 タオルでよだれを拭きとってやる。

 生きている価値があるのかと思う。この頃は、特にそう思う。鑑定結果を見たせいか、いや、その前からうすうす感じていたことだ。考えないようにしていただけで。死に損ない、くたばり損ない、これを生かすために、一体どれだけの労力と人生を費やすのだろうか。といってもどうせ垂れ流して、浪費するだけの人生、別段惜しくはないが、だが、屈辱的な気はした。どうしてこの命が、この男のために。

 香は無意識のうちに、手を武朗の首元に伸ばしていた。指先に浮き出た太い血管が当たる。そのとき、武朗の喉仏がごくりと動いた。ぎょっと、手をひっこめる。

 我に返ったとき、香は自分のやろうとしていたことを自覚した。自分の掌を見下ろす。

 血がどくどくと脈打つ。呼吸の音。部屋の中の空気がぞろりと這い出す。その動きを頬やうなじで感じる。だが、目だけは掌に止まったまま、一ミリも動かなかった。

 何分経っただろうか。

 香は突如、呪縛が解けたように全身から力を抜いた。脱力した勢いで、その場に尻もちをつくようにへたり込む。脚に力が入らない。膝頭の笑いが止まらない。

 武朗を窒息させようとしたその手で頭をかきむしった。

 もやもやする。良くないものが頭に充満している。

 頭をかきむしるうちに、閉めきった部屋の空気を入れ換えるように、少しずつ頭がすっきりしてくる。つきものが落ちたように、頭から毒気がすっかり抜けて、元通りの呆けた状態に戻ると、ほっとした。馬鹿になるのもいいものだ。とりあえず、目の前にある嫌なことからは逃げられる。悩みとは無縁でいられる。

 馬鹿に拍車をかけるために、煙草に火をつけた。近頃は、おむつと煙草と自分の食料を買うためにしか外に出ない。武朗とこの部屋と、武朗のためにこの家に出入りする数人の人間、それだけが香の全てだった。本当にそれで全てなのかと、念押しをしたくなるけれど、実際、これで全てなのだ。

 ということは、つまり、武朗がいなかったら、それこそこの身一つ、か。数人ではあるけれど、自分がこの世界に生きていると認知してくれる人がいるのは、武朗のおかげだ。武朗がいなくなったら、そのとき自分は……。

 自分のおかれた状況に気付いたとき、香は自嘲を禁じえなかった。

 武朗によって生かされている、その皮肉がたまらない。

 香は煙草を吸い吸い、自分の行く末を思う。無意識のうちに煙草の灰を武朗のベッドに落としていた。香はそのことに気付かなかった。意識せずにそのような動きをとるはずがない。だが真実、香は自分がそのような行動に出ていることに気付いていなかった。香に悪気はなかった。悪意ももちろん。ただ、しこりはあった。

 

 夕食の片づけをしている最中、恵理が来た。

 恵理が洗いものをする香の背後から何か話しかけている。香は上の空でそれを聞いていた。くわえ煙草の灰が、スポンジを持つ手の甲に落ちる。手が濡れていたから熱さは感じなかった。

 何を言っても上の空の香に嫌気がさしたらしく、恵理はキッチンを出て行ってしまった。キッチンを出る直前に彼女がした溜息の声だけがやけに耳に残った。思わず、洗いものの手を止めて振り返ってしまうほどに。それなのに、最前まで恵理が何を話していたのは全く頭に残っていない。

 見ると、テーブルの上にはさっきまではなかったチョコレートの箱があった。ハワイだかグアムだか、それらしき風景が印刷されてパッケージ。

 そうか。旅行の土産話をしに来たのかと、ようやく合点がいった。しばらく顔を出してこなかったから、今日は何事かと、思っていたのだが。

 香はやかんを火にかけた。恵理が機嫌をなおしたら、一緒にコーヒーを飲みながら、チョコレートを食べよう。こんな箱のチョコレート、置かれても一人ではとうてい食べきれない。

 コーヒーを淹れようとしてコーヒーを切らしていたことを思い出し、急須を取り出す。愛用している大ぶりの湯のみをテーブルに並べたとき、廊下から恵理の足音が聞こえてきた。

 キッチンに入ってくるなり、恵理は思いがけないことを言った。

「おじいちゃんのベッドの上に灰が落ちていたんだけど。香、おじいちゃんのベッドの上で煙草を吸ったの」

 恵理がまなじりを上げる。

 香は恵理の指摘に一瞬、ぽかんとした。

 視界がぐるぐると回る。気分が悪い。恵理がまだ何か、きゃんきゃん言っているが、香の耳はそれを言葉として認識できなかった。叱責されているのは恵理の表情から分かる。だが、覚えのないこと、いや、自分がそうしたに決まっているのだが、覚えていないものは覚えていないのだから、そんなことで怒られると、反論も弁解もしようがない。

 いらいらする。香は自分を落ち着かせようと、とりあえず椅子に腰を下ろした。濡れた手でお湯を入れた急須を揺らす。時間だけに意識を集中しようとした。さっきお湯を入れた。茶葉は、看護婦さんに出すときよりもけちったから、いつもよりも長めに抽出した方がよい。

 香は無意識のうちに、指先を口に持って行っていた。いらいらしたときの癖だ。四本の爪の先を唇に立てる。甘い痛み、もう片方の手で急須を持ち上げ、湯のみにお茶を注ぐ。利き手とは反対の手だったから、いや、いらいらが如実に手先に表れたからか、二つの湯のみにお茶を注いでいるうちに、お茶の半分はどちらの湯のみにも入らず、テーブルにこぼれた。香は急須をテーブルに置き、袖口でお茶を拭いた。

「香はおじいちゃんのせいにしている」

「えっ?」

 香は袖口を伸ばしたまま、恵理の顔を見上げた。

「うまくいかないのはおじいちゃんのせいだと思っているんでしょ。老人ホームでも病院でも入れればいいのに、そうしないのは、おじいちゃんがいなくなったらうまくいかない言い訳ができなくなるからよ。おじいちゃんのせいにして、おじいちゃんに八つ当たりして、恥ずかしくないの」

「黙れ」と言おうとしたが、口を開けた瞬間、喉の奥がぐうっとしまった。瞼が熱い。だから、顔を上げることもできない。

 恵理はまだ何か言っている。

 もう何も聞きたくない。

 手で耳をふさぐ。その手首をつかまれて、香は思わず、飛び上がった。

 湯のみが割れる音がした。壁に当たって砕けたのだ。濡れた床に粉々になった湯のみの破片が落ちている。

 香はその視線を壁からゆっくりと自分の足元に寄せた。

 恵理がうずくまっていた。細い肩が上下する。恵理は片方の耳を両手でおさえている。

 しばらく、二人の呼吸の音だけが聞こえた。香は立ち尽くしたままだった。

 恵理の呼吸が先に鎮まった。恵理が顔を上げた。今までのことを取り繕うように、耳を覆っていた手で髪を梳き、耳にかける。

 耳の付け根が紫色になっていた。恵理はきっと、気付いていないのだろう。

 香は、恵理の耳にかけた髪を、耳から外そうと腕を伸ばした。恵理は女性だから、きっと顔の痣を他人に見られたくないだろうと思ったからだ。だが、その腕は恵理に払われた。

 恵理は決して香を見なかった。ちらりとも見ず、恵理は香の横をすり抜けた。玄関の引き戸が閉まる音がひどく遠くに聞こえた。

 テーブルのチョコレートの箱を見た。その視線を脇にずらし、一つだけ残った湯のみを見た。

 明け方、香はチョコレートの箱を台所の流しに入れた。その上に新聞紙とチラシで山を作る。チラシの最後の一枚をひねり、ライターで火をつけた。流しに投げ入れると、一瞬で、新聞紙とチラシの山が燃え上がる。

 香はその様子を見つめていた。

 自然と溜息が漏れた。涙で目がかすむ。煙を吸いこみ、むせる。その間も、香は一時も火から目を離さなかった。

 頬がちりちりと熱い。髪の焦げ付く臭いに刺激され、脳裏に記憶がよみがえる。

 煙を吸いこみながら、それでも香はうっとりと燃え上がる火を見つめ続けた。