実が落ちる前に

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現在③-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

 線香の煙はいつの間にか消えていた。燃え尽きたわけではない。風のせいだ。

 香は燃え残った線香を前にして、ほんの少し迷った表情を浮かべたが、結局そのまま膝に手をつき立ち上がった。そして、濡れた墓のてっぺんを一度だけ手で撫でた。

 香は住職に用事があるからと言って、紗江を本堂の前で待たせたが、実際には待つというほどの時間はかからなかった。香の用事はほんの二、三分で終わった。

「何の用だったん?」

「えっ、ああ。このへんって納骨は一周忌のときなんだって」

「ああ、そのこと。ばあちゃんに訊けばええのに」

「そんなことも知らんのんかって怒られるじゃん」

 紗江は香と中身のない言葉のやりとりをしながら、ふと思った。

 一年後、香はまた島に戻ってくるのだろうか。そのとき、本家はどうなっているのだろう。もし本家が跡形もなくなって、かわりに老人ホームが建っていたら、香は一体どんな顔をして島に帰ってくるというのか。

 寺を出ると、足は自然と本家に向かっていた。紗江の家は本家の隣だから、帰り道は同じなのだ。

「明日は何をする予定なん?」

「とりあえず役場に戸籍とりに行かなきゃ」

「いつまでこっちにおれるん?」

「さあ、どうだろ。色々しなきゃいけないことがあるからなあ」

 言いながら、香は片手で頭をくしゃくしゃと掻きまわした。

 そういえば、現在、彼は何をしているのだろう。紗江はふと気になった。いまだに彼の口からその手の話を聞いていない。どこに勤めているのか。どんな仕事をしているのか。彼の口から出るのは、八割方、どうでもいい話だ。盆や正月でもないのに島に帰って来られるところをみると会社勤めをしているようには思えないが、一方で、葬式のときの喪服は意外と板についていた。

 紗江は訊いてみようかなとも思ったが、やめておいた。自分のことを突っ込まれるのが嫌だったからだ。「紗江は何してんの」と。

 

 お酒が入ると、香はいっそう饒舌になった。墓参りの後、帰宅してからコンタクトを外したらしく、今は眼鏡をかけている。頭をかきむしる度に、その眼鏡がずれる。それがわずらわしいのか、香は眼鏡を外してはテーブルや畳の上に置き、また話が興にのってきたら、思いついたように眼鏡をかけ直す。とにかく落ち着きがない。その間にも、ちゃんと刺身や煮つけを平らげているところが、またすごい。こうも無駄な動きが多いと、この人は一生太れないだろうなあと思う。

 香は今、紗江の母親に向かって、今日までの自分の食生活がいかに貧しいものであったのかを一生懸命話している。もっと淡々と話せるはずの話題なのに、どうしてこんな調子で話さなければならないのか、紗江にはちっともわからなかった。

「スーパーのお弁当も、あれはあれでなかなかよくできていて、おいしいんです。おいしいんですけどね、やっぱり、悲しくなるというか、時たま無性に寂しくなるときもあるわけですよ。うわぁ」ここで香は目に腕を当てて泣き真似をする。「みたいな。今の俺、世界で一番かわいそうなんじゃね、とか」

 母親は久々に聞く香節に、声をあげて笑った。

「そんなこと言って、手料理を食べさせてくれる彼女がいるんじゃろ」

 そう言って、母親は「ねえ」と紗江に同意を求める。

 紗江はお酌の手を一瞬止めてしまった。そんなことで同意を求められても困る。何と返せばよいのかわからず、言葉に詰まるが、誰も紗江の動揺に気付かなかった。誰かが気付く前に、香のハイテンションな喋りが始まったからだ。

「それがなかなか難しい問題で」

 母親がおかしそうに言う。母親はお酒が入ると笑い上戸だ。

「どこが難しいん?」

「というのも、俺、こう見えて、舌が肥えているっていうか、うーん、何て言えばいいのかな、あれは神経質というやつだろうな、うん。スーパーのお惣菜だとどんな味でも気にならないんだけど、手作りとなると、からあげはこう、みそ汁はこう、カレーは辛口みたいなね、けっこう細かく言っちゃうんですよ。で、けんかになっちゃう。一度なんか、グラタンに入れるマカロニの味付けでけんかしちゃって。というのもね、そのときの彼女、マカロニにケチャップをいれ始めたんです。ホワイトソースのグラタンにケチャップ! 目が点になっちゃった。ええっみたいなね。で、ケチャップをつけるつけないでけんか。まあ、それぞれ好きなようにすればいいじゃんという気もするんですけどね。でも俺、好きになっちゃうと何もかも一緒じゃなきゃ嫌なんです。俺のやり方はこうだ、みたいなね。俺に合わせろってやって、結局ふられちゃう。このときの彼女とも、マカロニが原因で別れちゃったし」

 香の与太話を聞きながら、胸が少しざわついた。

「全部同じじゃなきゃ嫌なんてガキ臭いのは分かっているのですが、なかなかね」

「昔はさっちゃんが言っていたのにね。全部お兄ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だって」

 母親は目を細めて、昔を懐かしむ。

「そういえば、何年か前、うちに『香の居場所を教えろ』って電話があったわよ。女の声で。気味、悪かったわあ。電話越しだったけど、すごい剣幕で。でもそんなことを言われても、私だってあんたの居場所を知らんかったし、答えようがないじゃろ。じゃけん、そう言うたら、電話、がしゃんと切られて。あれ、ストーカー?」

 今夜、初めて香の動きが止まった。箸を持ったまま、香は母親の顔を見つめる。ちょうど眼鏡をかけていない瞬間だったから、香の表情をよく見ることができた。香は明らかに驚いていた。ぎくっとしていた。そして、一瞬だが、唇の端が震えた。何かを取り繕うとしたが、うまい言葉が浮かばなかったのだ。その後、香は暗い表情を浮かべた。紗江の目にはそれが泣きだしそうな表情に見えたから、はらはらしたが、紗江以外の目にはそうはうつらなかったらしい。母親も父親も、それに祖母も香の表情の変化に気づいた様子はなかった。

 香は気をとり直すように、眼鏡をかけ直した。表情を見られたくなかったのかもしれない。香は眼鏡をかける前、手で目をこすった。

「それにしても、向うの家を出たんならどうしてすぐに教えてくれんかったん? 向うの家を出ていたこと自体、そのストーカーの女から教えてもらったんよ。うちらもうびっくりしてから、おじいちゃんの病院に電話したら、そこも退院しとるいうし。もう知らんうちに」

 母親はたしなめるような口調で言う。

 香は叱られた子供のように肩をすくめ、「ご心配おかけしました」と殊勝らしく頭を下げた。

「やっぱり、ストーカーのせいなん? 連絡先よこしてこんかったの」

「ストーカーというかなんというか」

 香は困ったように首を傾げた。

「つい忘れていたというか。こっちのことを」

「忘れていたあ?」

 母親の呆れた声。

「じいちゃん、引き取ったときも、連絡しなきゃなあとは思っていたんですけど、ばたばたしているうちにうっかり」

 母親がまだ何か言いたそうにしていたが、それまで黙っていた父親が口を開いたため、母親は引きさがった。

「それにしても大変だっただろう。一人で介護するのは。もっと早く教えてくれれば、うちだって助けてやれたのに」

「まあ、でも、何とかなりましたしね、何とか。俺も最初はどうなるかと思いましたけど。なんていっても俺はほら、猫もまともに飼えなかったくらいで。花だって咲かせたことないし。それなのに、今度は人間でしょう? これは詰んだな、と」

「じいちゃんの介護を猫の世話と一緒にする奴があるかい」

「そりゃあ、そうだ」

 香はからから笑う。

「でも、あれですよ。実際始めてみると、これが猫よりも楽なくらいで。相手は日がな一日寝ているだけだし。それにほら、最近はなんだかんだで便利な世の中でして。看護士さんが来てくれるんですよ、わざわざじいちゃんの様子を見に。介護は利用できなかったんですけどね」

その後も香の与太話は続いた。最後には、香は畳の上に膝を立て中腰になって、お世話になった看護士さんの物まねをしては、今度はそれにこたえる自分自身の役。ふと横を見ると、祖母は頭が痛いというように額に手をやっていた。紗江にしても祖母と全く同感だったが、一方で安堵の気持ちもあった。

 香がいつあのことを口にするか。香があのことを口にすれば、この和やかな雰囲気は一瞬のうちに打ち砕かれることは目に見えていた。

 しかし香の様子を見るうちに、紗江の危惧は次第に溶けていき、心からくつろぐことができた。が、それは紗江の早とちりだった。香はあのことを忘れていたわけではなかった。

「本家を売る」

 香がその話題を切り出したのは、夕食がほとんど終わりかけた頃だった。皆の箸がはげの煮つけから寿司へと伸び始めていた。香ははげの肝をちびちびと食べながら、まるで世間話の続きのような軽さで言った。