実が落ちる前に

自作小説を公開するブログです。暇なとき、読んでいただけたらうれしいです。小説は作品ごとにカテゴリー分けしています。日記や雑文はその他カテゴリーです。

現在③-2 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説 web小説

「本家を売る」

 香がその話題を切り出したのは、夕食がほとんど終わりかけた頃だった。皆の箸がはげの煮つけから寿司へと伸び始めていた。香ははげの肝をちびちびと食べながら、まるで世間話の続きのような軽さで言った。

 紗江は酌の手を止めた。

 突然のしかかる静けさ。

 紗江は息を殺した。そして、おそるおそる父親の顔を窺う。

 父親は一瞬細い目を見開いていたから、首を小さく横に振った。香が言い出すことを半ば予想していたような反応だった。あるいは知っていたのかもしれない。葬式の後にでも、話す機会があったのだろう。紅生姜をつまみながら冷酒を舐める顔にはこれといった表情はなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つと決めたようだ。

 父親と全く対照的だったのは隣の母親だ。母親は全く知らされていなかったのだ。これを見るに、香は外堀から埋めるタイプのようだ。香にしてみれば婿養子の父親が最も気安く話せる相手だったのだろう。母親はしばらく口をぽかんと開けたまま香りを見つめていたが、次第に頬が真っ赤に膨れていった。

 紗江は最後に祖母を見た。最近とみに食欲が落ちている祖母は、食事が始まって早々に箸を置いていた。湯呑を両手で揉むようにしながら、首を傾げた。

「まだ相続も済んでおらんのに、気の早い話よ」

 祖母は茶化すような口調だが、胸中穏やかではないはずだ。それが表情に出ないのは、さすが年の甲というべきか。

「ここだけには早くお知らせしておかないと、と思って」

「本家以外にもまだ売るような土地は残っとるじゃろうに」

「市内の方は」

 香は言い淀んでから、

「こっちにはどれくらい残っているのかは知りません。何せ俺が会ったときにはじいちゃん、もうあれで」

 祖母はふんと鼻を鳴らした。

「島のは……まあ、それは今はええじゃろ。どうせ大した金にはならん」

 とはいっても、島の地べたの三割は本家が所有している。山もあるが、港もある。それに島で人が住んでいる場所、その地べたは本家のものだ。ここもそう、それに父親が経営している会社や工場も上の建物は別にして地べたは本家のものだ。祖母がぼかしたのは、大した金にならないからではない、勝手に売られては困るからだ。

「そっちから処分するんじゃあいけないのかい? 駐車場だって街中ならええ値になるじゃろ」

「貸している土地は持ち主といえど、勝手に売買できませんし。何だっけ借地権? その関係で。それに俺としても金を稼いでくれる土地を手放したくないのでね。あの家は金を稼いじゃくれないし、税金払うだけ持っていて損なんで」

「分家が残って本家が絶えるという話もありゃあせんじゃろうに。ちゃんと跡取りもおるというのに」

 本家に我が子を差し出した祖母の言葉も香を改心させることはできなかった。むしろ、何やら彼のツボにはまったらしく、にやにやとした笑みを浮かべる。

「そんなの、もう前からあってないようなものでしょ」

「さっきから黙って聞いとりゃ」

 母親が掌で食卓をばんと叩いた。顔を前に突き出す。

「あんたが帰ってくる思うて、この十七年間、毎日本家に通って、掃除して草むしって、あの家を守ってきたんよ。あんたが継がんでどうするん。今、勤めに出ておらんのじゃろ。今から勤め口を探すくらいなら、うちの会社でもええじゃろ? ねえ父ちゃん」

 何か言ってやってと妻に肩を叩かれた父親は酒にむせながらも「うむ」と頷き、「母ちゃんの言う通りじゃ」と付け足した。言い終わると、空になったグラスを何度も口に運んでいる。

 だが紗江は知っている。婿養子らしく一歩引いた態度をとっている父親にしても本家の行く末は他人事ではない。本家の消滅は、本家の威を借りて島の町長を務めている父親にとっては大きな痛手だ。

 父親は心中事件後、武朗の地盤を引き継いで町長に当選した。本家の名前は島で大きな影響力を持っている。本家あっての瀬田家であり、分家としての立場は変わらない。

 核を失った組織はやがて瓦解し消滅するだろう。誰も住んでいない屋敷が十七年間変わらぬ姿を保ってこられたのは名だけでない、本家に実があるからだ。香はああいうが、今でも本家の力は厳然として島を支配している。

 香はあははと笑ってから、

「それは勘弁。俺はこんな小さな島に骨を埋めるつもりはないし、かまぼこを作って一生を終えるつもりもありません」

 食卓が再びばんっと鳴った。小皿が飛び上がる。

 紗江はひっと身をすくめた。思わず日本酒のビンを胸に抱きしめる。

 母親は食卓の上に身を乗り出していた。母親の顔には頬から目の縁まで赤味が広がっていた。

「本家の跡取りだからっていい気なもんね。本家のつとめも果たさず十七年も島の外で好き勝手やってきたくせに。向うじゃあ、こっちのことなんか忘れとったんじゃろ。樋山姓を名乗っとったんじゃろ。だったら、そのまま本家を出てどこへないと行ってくれりゃあええのに。金の匂いがすりゃあ、ハイエナよろしくのこのこ帰ってきよる。ふざけんじゃないよ」

「君江、やめんさい。見苦しい」

 祖母の凛とした声が母親の激情を遮った。

 紗江はほっと息をつく。

 我に返った母親は左右を見た。そして、夫のぽかんとした顔に気付くと、半ば上げていた腰を座布団に下ろした。

「嫌なところを見せちゃった。すまんね」

 祖母は静かな声で言った。痩せた上半身をわずかに曲げる。紗江は慌てて祖母の背後に回り、背中に手をやった。この状況に血圧が上がったのかと思ったが、違った。祖母は香に頭を下げたのだ。

「でもこれが言うたんはうちらの本音だよ。あんたが思っとる以上にわしらは本家を大切にしとるし、それなりの扱いをしてきた。今日、母屋を見たじゃろう」

「ええ。昔のままでした」

「そうじゃろう」

 祖母は膝を打ち、誇らしげに上半身をそらせた。

「焼け跡の片づけは難儀じゃった。業者さんに頼んだら、これがまたえらい金がかかってねえ。まあ、母屋には火の粉がかからなんだけえ、それだけはの。ほんま、うまい具合に残ってくれたわ」

「不幸中の幸いってやつですね」

 香は言いながら、片方の頬をゆがめた。屈託のあるような笑い方だった。

「あのときはおばあさまが通報してくださったと聞きました。早い通報のおかげで母屋への延焼を免れた、と」

「皿を洗っとったらの、台所の窓が赤うなってね」

 祖母は顎で台所を指した。

「それですぐに気づいた」

 祖母は胸を張って自分の手柄を自慢したが、すぐに真顔に戻った。

「わしらあ、本家がなくなっちゃ困る。本家あってのわしらの商売じゃけんの。あんたは好きなところに行きゃあええ。あんたは町で暮らしとったんじゃけえ、今更島の暮らしには慣れんじゃろう。それはようわかる。島から出て行ったお人は皆そういうけえの。わしらあ、あんたを島に縛り付けようとは思わん。そこで一つ相談なんじゃが」

 祖母は上目遣いで香を見た。

「うちの孫に本家を継がせるいうのはどうじゃろうか。わしの母も家付きだった。女が跡を継いでもいっこうかまわん。昔からうちはそういう家よ。それに悠太朗はわしの子だ。これの弟じゃ。これの娘が跡を継いでもええじゃろ。うちにも孫はこれ一人じゃけえ、本家にやりゃあ途絶えることになるが、このさい仕方ないわ」

 祖母は前からこのことを考えていたのだろう。口から出る言葉に淀みはなかった。祖母の提案に対し、香は短く返す。

「俺を追い出す、と?」

 父親が祖母から話を継いだ。

「昔ならそれもできたが、今の世の中そうもいかんじゃろ。だから、金の話をうちとせんか。あんたは金がほしいんだろう? 別に、この島に老人ホームを作って島を老人のユートピアにしたいだとか、介護福祉になみなみならぬ情熱を持っているだとか、そういうわけじゃないんだろう? だったら、うちに売ってくれてもええ。違うか? あんたはうちに本家とその下の地べたを売る。ついでにうちの娘を養子にしてくれればええ。それで本家の名は残る。悠太朗さんのときと同じだよ。あんたはその後、金を持ってどこへなりと好きなところへ行きゃあええ」

 頭の中でそろばんでもはじいているのだろうか。彼はそんなことは不得手だったはずなのに、今、香は紗江の知らない表情を浮かべたまま冷酒のグラスを上げたり下ろしたりしている。

「悪い話じゃなかろう? あんたが売るんいうのは相手はプロじゃろ。あんたはまだ若いけ。足元を見られて買い叩かれるのがオチよ。終わってみて、二束三文にしかならんなら、どうする」

 父親は香の顔を窺う。

「悪いことは言わんけえ、商売はわし相手にしとき」

 父親は悠太朗が金の交渉に苦労したときのことを思い出しているようだ。あの息子が上手くやれるはずがないと高をくくっている。それを察したのか、香は表情を硬くしたが、すぐに力を抜いてにこにこと笑った。

「ほうですね。悪い話じゃないみたいだ。とはいえ、ここですぐに返事をすることはできませんので」

「ええ、ええ。一度持ち帰ってゆっくり考えてみんさい」

「はい、そうします」

 香は顎を引いて頷いた。香の表情には全く屈託がない。

 客がまだ食べ終わっていないのに、母は皿を下げ始める。しかし香は全く頓着せず、寿司をたらふく食べてから、やっと腰を上げた。彼を玄関先まで見送りに出たのは紗江だけだった。それは、瀬田家の女性には考えられない無礼だったが、祖母でさえそれを言い出すことはなかった。

「もっと穏便に切り出せばええのに」

 香は「何が?」というように小首を傾げる。

「本家の件」

「曖昧な言い方をするとちゃんと伝わらないじゃん」

「町ではそれでええかもしれんけど、こっちはそれじゃあだめなの。知っとるくせに。それともわざとやってんの」

「まさか」

 香は目を丸く見開いた。

「嘘。うちらのこと。おちょくっとるんじゃろ」

 香はあははと笑ってから、急に真顔になった。

「紗江はここを出て行かないの? おじさんはあんなことを言っとったけど。紗江は島の暮らしで足りているの?」

 足元がゆらりと揺れた……気がした。何か言わなければと焦るが、紗江は香のように舌が回るわけじゃない。どう言い返せばいいのか、すぐには思いつかない。歯の裏側を舌で舐める。これ以上、不安が膨らめばきっと顔に出る。香に気付かれる。それだけは嫌だった。

「余計なお節介」と言い返せばよいのだと気づいたときには、すでに軽口で済ませられるタイミングを逸していた。今更行っては彼に本気だと見抜かれる。だから、紗江は開きかけた唇を再び閉じた。どうしてこうも間が悪いのだろう。

 彼は自分の一言が紗江に与えたショックについて全く気付いていなかった。

「でもいきなり養子とはなあ。失礼な話だ。こういうときはさ、うちの娘を嫁にどうかとかさ、そんな話から入らない? それを養子なんて」

「そんな気、さらさらないくせに」

「礼儀の話だ」

「意味わかんない」

 香はおかしそうに笑った後、最後に「ごちそうさま。おやすみ」と言って、玄関から出て行った。

 

 戸籍課のおばちゃんに尋ねると、香はまだ来ていないという返事だった。おばちゃんは同級生の母親だ。