実が落ちる前に

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現在③-3 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 戸籍課のおばちゃんに尋ねると、香はまだ来ていないという返事だった。おばちゃんは同級生の母親だ。

「紗江ちゃんが戻ってきて、お父ちゃん喜んどるじゃろ?」

「さあ、どうでしょう」

 紗江は曖昧な返事で濁す。実際、大学まで行かせた娘が結局何物にもなれなかったことについて父親がどう思っているのか、紗江には想像もつかない。失望しているだろうということは見当がつくが。優しい父親は決してそんなことをおくびにも出さない。

「うちの子なんか、電話の一つもかけてこんのんじゃけえ。どんだけ忙しいんだか知らんけど、電話くらい出なさいって感じよ。東京で一人暮らしするいうたときはうちの父ちゃん、かんかんじゃったけど、今度はエジプトじゃろ。一応女じゃけえね。色々考えるけど、こればっかりは親が心配してもしようがないしねえ」

 このおばちゃんは、困った困ったと言いながら娘の自慢をすることで有名だ。紗江の母親なんかは「もう十回は聞いたわ」といって陰で笑っている。東京で一人暮らしでかんかんなんて、よう言うよと紗江も苦笑してしまう。あの子が大学に合格したときなんか、夫婦揃って「困った困った」と島中を練り歩いたのだから。紗江なんか新種の鳥かと思ったくらいだ。   

 紗江はこれまでに何度もこのおばちゃんにつかまっている。だから、おばちゃんの話に相槌を打ってはいたが、何も聞いちゃいなかった。

「えっ?」

 ぼんやりが度を過ぎた。思わず聞き返す。

「だから、あんたんとこのおばあさまよ。どっか悪いん? うちのんが県病院で見たいうとったけど」

「そりゃあ、病院くらい行きますよ。年が年じゃけえ」

 おばちゃんはわかっとるわかっとるというように頷いた。

「それにほれ、本家さんが亡くなったばかりじゃし。あれで気落ちしとるんじゃろう。この前会ったときなんかね、ちょっと立ち話しただけで、おばあさま、あんちゃんが死んだいうて泣き出して。情けのうて情けのうてせいがない言いなさってね。本家さんが倒れたんは何年前だっけ? 今更、本家さんに頼る気持ちもなかったじゃろうに。ずっと離れて暮らしておっても、死ねばやっぱり悲しいんじゃねえ。会えんのんなら、生きてても死んどっても同じようにも思うけど、やっぱりちがうんじゃろうね。まあ、しっかりしたお人じゃし、心配はいらん思うけど。あんたが言うようにお年もお年じゃし、これまで通りにはいかんよね。あんたが気いつけてあげんといけんよ」

「そうですね」

「まあ、本家さんとこの若いのが戻ってくるいう話じゃし。そうしたらおばあさまも安心するじゃろ。な?」

 紗江は明言を避けながら、じりじりと少しずつ後ずさりをする。

 墓穴を掘らず、尻尾を掴ませず、地雷を踏まない。島での会話はいつでも危険との隣り合わせでスリル満点、綱渡りに似た緊張感がみなぎっている。ここでは、「無難な」世間話など存在しない。その証拠に、紗江が話題を変えようと「寒さも彼岸過ぎまで言うけれど」と無難に(天気の話以上に無難な話題がこの世にあるだろうか)例年にない春の寒さを口にすると、おばちゃんは、「みかんができすぎて困る、価格破壊だ」という話を経て、なぜか本家にみかん畑のモノレールを直すよう話を通しておいてくれと頼まれてしまった。

 みかん畑というのは、本家が島民に貸している土地のこと、まあ、昔ながらの言い方をすれば小作である。といっても、本家は別に小作料をあてにしているというわけではなく、昔は一種の慈善事業だった。つまり、安く農地を貸し、その恩返しとして島民は本家の当主が議員やら町長になるのを助けてきたというわけだ。武朗の父親国会議員に当選したときなどは、島あげての大騒動だったらしい。紗江は話に聞いただけだが。

 昔の慣習が今まで続き、このおばちゃんの家も本家から借りた農地でみかんやレモンを栽培している。貸すのも惰性、借りてみかんを栽培するのも惰性、おばちゃんの家は別にみかんで飯を食っているわけではない。

 とはいえ、やっぱりなければ困るものなのだろう。おばちゃんら若夫婦は給料をもらい、将来は共済年金ももらえるが、おばちゃんの親はみかん農家だ。当然、年金も国民年金のみ。だからみかん栽培をやめられない。そうでもしなければ、若夫婦に養ってもらう羽目になる。

 ただ、問題は香にみかん畑への興味があるか。自分の実家ですら売ろうという男である。かまぼこを作って一生終える気はないとも豪語している。かまぼこがだめなら、みかんもなしだろう。もしかしたら、農地一切合切もまとめて売るかもしれない。そのとき、売る相手は金のない島民ではなく、業者か不動産屋か知らないが、島の外の者だろう。そうなると、おばちゃん、否、その親にとってはモノレールどころの話ではなくなる。飯の種が消えるということだ。

 香は、金を稼がない土地はいらない、と言った。それはその通り、理屈は分かるが、紗江には理解はできなかった。人間、地面に足をつけて生きているのにと思う。

 どちらにしろ、おばちゃんに香の企みを教えることはできない。そんなことをしたら、おばちゃんは卒倒してしまうし、寺の鐘が鳴る頃には島中に知れ渡る。紗江は「諾」とも「否」とも言わず、愛想笑いでごまかすしかなかった。

 戸籍課からの脱出を果たし、役場の隣の図書館で自分の用事を済ませ外に出た。ガラス越しに役場の中を覗いたが、やっぱり香の姿はなかった。

 どこで油を売っているのだろう。もう昼を過ぎている。他に何か用事があったのだろうか。昨日の彼の様子では、すぐにでも役場に行きたそうだったが。寝坊したか。それとも、すぐに脇道に逸れる彼のこと、母屋の大掃除でも始めたか。

 暇だし、本家に顔を出してみようかとも考えたが、「だめだめ」と紗江は首を振った。こちらから度々訪ねては彼に弱みを見せるようなものだ。

 だが、まっすぐ帰宅するのも気が進まない。

 白いデミオの運転席でしばらく腕を組む。

 気分転換に展望台に行ってみようか。今日は昨日よりは暖かい、いい天気だ。役場は何をとち狂ったのか、展望台を恋人の聖地と名付けて観光客を呼び込もうとしているが、一人で行って悪いということもない。今日の瀬戸内海は彼女の一番いい顔を見せている。白波も立たない海面に水紋が重なる。千畳敷の牡蠣筏の脇を小さな漁船がゆっくりと横切る。

 紗江は閉じていた目を開いた。そして、車のキーを回しアクセルを踏みこんだ。

 胸にはまだもやっとした気持ちが残っている。残っているどころではない。それは息を吸い込むごとに胸の中で膨らみ続ける。紗江は無意識のうちに息を止めていたせいで、軽いめまいを起こしかけた。慌てて、ブレーキを踏み胸に手を当てた。

 自分と同じ年の子が東大に行き、一流商社に就職し、エジプトで働いている。

 自分は一体何をやっているのだろう。

 海を見ても、その先にエジプトを想像できない自分の世界は狭く小さい。ここからどこへだって行けるのに。

 目で、アスファルトの白線をずっと先まで辿る。どこまで続いているのか。あの曲がった先に何があるのか。十年後、私は何をして生きているのだろう。

 無性に苛々し、指先でハンドルを叩く。こんなときに限って胸の棘はなかなか抜けない。

 島の周囲をめぐる道路からレモンの香る山道にハンドルを切ろうとしたとき、サイドミラーに香の姿が映った。思わずブレーキを踏み、車を路肩に寄せる。

 香は紗江に気付いていない。

 なぜか香は海岸から上がってきた。そのまま紗江が通ってきた方向に歩いていく。おそらくこれから役場に行くのだろう。

 サイドミラーの香の背中が小さくなりやがて見えなくなる。紗江は車を下りた。

 道路から海へ下りる。そこは漁船のための港だ。港に下りる階段の途中で足を止め、見渡すと漁船の主がおのおのの作業に没頭している。猫に小魚を投げてやる漁師あり、網のほつれをほどく漁師あり。

 香は何をしていたのだろう。

 紗江は見知った顔を見つけた。声をかけると、元さんは「ああ、紗江ちゃんか」と仕事の手を止めてくれた。元さんは数年前まで鯛の養殖をしていたが今では息子夫婦に譲って、自分は漁師をしている。家族が食べる分だけとればいいというスタンスだから、こうして紗江の相手もしてくれるのだ。

 瀬田家にとって元さんの家は本家を通じて遠い遠い親戚にあたる。たしか曾祖母静江と彼の父親がはとこか何かだ。まあ、そんなことを言えば島の大半が親戚筋にあたるのだが。

「さっき、本家の息子がおったでしょう?」

 元さんは黒い顔を横に傾けてから、「ああ、あれが」と手を打った。

「遠目じゃったけえ、よう気づかなんだ。あれがそうか。そうよの、言われてみりゃあ悠太朗さんに似ているかの。体つきがそうじゃ、たしかによう似とる」

「彼、誰と話していました?」

「広川の息子じゃないかな。ほら、あそこにおる。訊いてみんさい」

「ありがとう」

 紗江が行こうとすると、元さんに呼び止められた。

「ああ紗江ちゃん。本家の息子とええ仲なんか」

「へっ?」

 紗江はぎょっと目を見開いた。びっくりしすぎて、あやうく腰を抜かすところだった。

「うちんとこのばばと嫁がそう言うちょったで。葬式んとき、ええ仲に見えたって」

 いつの間にそんな話になっていたのだろう。紗江は目の前がくらくらした。これだから田舎のおばさんは。油断も隙もない。

「もう、ええ加減なことばかり。おじちゃんの口から伝えといて。彼とはそういうんじゃないって」

「さよか。ばばの言うことはあてにならんの。でもそんなこと言うて、向こうで会うたりしとったんじゃないか。紗江ちゃんも町に出とったじゃろ」

「おじちゃんまでそんなこと。私だって香と会うたんは、この前の葬式が初めてよ」

「そりゃあ、残念じゃあ。うちの嫁も、紗江ちゃんと本家の息子がええことになりゃあ、丸くおさまるのに言うとったで。年恰好もちょうどええし、小さいときから仲良かったじゃろ。まあ、あれか。最近の若いもんは家のことなんか考えて結婚せんかの」

 紗江がうなずくと、元さんは紗江の気も知らず、もう一度「ええと思うがのう」と呟いた。

 家のために結婚する。子どもを産み育てる。母も祖母もそのまた母も、そうやって家を守り島で暮らしてきた。紗江はそのことに違和感も反発も覚えない。だが、同世代の友人には自分の結婚観を話したことはない。「これだから田舎者は」と笑われるのが目に見えているからだ。紗江は自分の考え方が前時代的であることにちゃんと気付いている。もちろん家のために犠牲になるのは嫌だ。しかし男性から交際を申し込まれると、咄嗟に彼が家にふさわしいのかを考えてしまう。両親や祖母に気に入ってもらえるのか。そういう目でしか男性を見ることができない。一方で自分が彼を好きなのかどうか、自分の気持ちに気付くのはとても苦手だ。

 守るほどの家ではないということは十分分かっている。しかも紗江は分家の生まれであって本家の娘ではない。家がどうのこうのという立場ではないのに、どうしてこうも時代錯誤な考え方が染み付いてしまったのか。

 紗江は香に苛々の矛先を向けた。元はといえば全部、本家の跡取りがしっかりしないせいだ。

 どちらにしろ、香とどうかなるなんてことはありえない。香は島を出て行くと決めている。

「沖田に会いたいんじゃと」

 広川のおじさんはにこにこと日焼けした顔に皺を刻みながら教えてくれた。広川のおじさんの年は紗江の父親とそう変わらない。娘が紗江と十歳も違うせいか、広川のおじさんは紗江の父親よりもずっと年上に見える。

「沖田さんってどの」

 島に沖田という名字は多い。

「哲いさんとこの妹婿の。ほれ、戻ってきたんがおるじゃろ」

「ああ、あの人」

 頭に真新しい平屋の一戸建てが浮かんだ。奥さんが島の人で旦那さんは呉で造船の仕事をしていた。定年退職後、去年島に帰ってきた夫婦だ。

「本家さん、惜しかったなあ。沖田、ついさっきまでここで油を売っとったんじゃけど。ちょうど行き違いよ。あと、ちっと早かったら、無駄足にならんかったのになあ。沖田めが、明日は荒れるけえ海には出んわいいうて一足先にあがってしもうたけえ。まあ、あそこは趣味でやっとるようなもんじゃけえ。一日や二日海に出んでも世話ないよの」

「じゃあ、香は沖田さんのお宅に行ったんですか」

「さあ。行けば会えるとは言うてやったんじゃが」

 紗江は「お邪魔してすみませんでした」と言いながら、さきほどから疑問に思っていることを、広川のおじさんに訊いても答えは返ってこないだろうことは半ば予想していたが、一応尋ねてみた。

「彼、そうして沖田さんを探しているんですかね」

「そがいなこと、わしが知るかい。まあ、わしもあの人とはあまり付き合いがないし。釣りの話はするがの。あの人もついこの前まで向こうにおられたんじゃけえ、何か縁でもあるんじゃろ」

 

 沖田の家に彼はいなかった