実が落ちる前に

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現在③-4 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 沖田の家に彼はいなかった

 奥さんは目を丸くして、

「さっきの本家さんだったん? あらま、そうとは知らずに私、お悔やみも申し上げんと。まあ、どうしましょう」

 紗江に訊かれても答えようもなかったし、彼自身気にするとは思えなかったから、「別にええんじゃないですか」と適当に答えておいた。そもそも、他人の家に来てちゃんと名乗らない彼が悪いのだ。

「彼はもうこちらには」

「ええ、うちの主人と出ていっちゃったよ」

「出て行ったってどこに」

「海じゃろう。他に行くとこなんてありゃしませんよ」

 思いがけない答えだった。

「主人は船の鍵持って出たけえね。そんなことより紗江ちゃん、今度本家さんに会うたら、よう言うといてね。うちも本家さんとは他人ではないんじゃけえ。本当は葬式も行きたかったんよ。うちの息子んときにお香典をいただいとるけえ。でもあんちゃんに、かえって迷惑じゃけえやめとけ言われてなあ。あんちゃんに香典をことづけたけえ、まだきちんとお悔やみも」

「それはお気を使っていただいて」

 紗江は香の代わりに頭を下げながら、今日何度目かの疑問が頭で渦をまいた。

 彼は一体何をしているのだろう。

「そういえば本家さん、うちの主人に何の用だったんじゃろ」

 奥さんも今更ながらに疑問を抱いたらしく、丸い首を横に倒した。

 紗江はお茶の誘いを固辞して、車に戻った。彼の行動は目的が分からず釈然としなかったがそれ以上に気になったのは、彼がちゃんと香典のお返しをしているのかという点だった。彼が母か祖母に相談しに来ればいいのだが、昨日のあれが効いて、いくら彼でもなかなか我が家の敷居をまたぐのは気が重いだろう。

 ハンドルに肘をつき、手に顎を載せる。「うーん」と悩む。

 やっぱりノータッチだ。

 本家が恥をかくのを母や祖母が黙って見ているはずがない。今頃、苛々しながら香が教えを乞いにくるのを待っているだろう。紗江としてはこの場面、自分の存在感を消すのが吉だ。下手に目立って、八つ当たりの的にされたのではつまらない。やっても、香に小声で助言するまでだ。

 

 仏壇に手を合わせてから、縁側に腰を下ろす。

 庭に池はあるが、現在は水を抜いている。紗江が子供だった頃は、鯉が泳いでいたし、縁側の下にまで水が引かれていたのだ。三段の滝もあった。しかし、紗江が滝を見たのは数回。あれはえらく電気代がかさむらしい。選挙前に大切なお客さをもてなす、それ専用の滝だったのだ。

 から池になったのは、沙紀が池に落ちたせいだ。

 あの鯉たちはどこへ連れて行かれたのだろう。手を叩くと、いっせいに水しぶきを立てながら寄ってくる、赤や黒の魚たちが紗江の脳裏に浮かんだ。

 香は門をくぐろうとして、見たことのないデミオに驚いたのか、上半身をのけぞらせた。縁側の紗江に気付くと、「これ、紗江の?」というように、車と紗江の顔を交互に指さしてから、やっとこっちに来た。

「あれ紗江の車?」

「母さんの」

「ふーん。隣からわざわざ車で来たのか」

「そんなわけないでしょ、馬鹿。用事があった帰りに寄っただけ」

 足がない香は一日中島を歩き回ったのだろう。縁側に腰を下ろすと、膝を立て大儀そうにふくらはぎ「を揉んだ。

 黒のウィンドブレーカーに水滴がついている。やっぱり海に行ったのだ。紗江が問うと、彼は目を見開いてから、「参った。紗江の地獄耳には敵わない」と降参のポーズをした。

「全部筒抜けだ」

 香は誰かが紗江の耳に入れたと思っているようだ。まさかストーカーよろしく紗江自らが付け回したとは言えず、紗江は彼の誤解をそのままにしておいた。

「海に何の用があったん?」

 彼の行動は秘密めいていて、簡単には教えてくれないような気がしたが、意外にも彼はあっさりと言った。しかもなぜか、彼はおかしそうに笑いをかみ殺していた。

「海ですることなんてそうないだろ。魚に決まっているだろ、魚に」

「魚って……えっ。まさかあんた、釣りに行っていたの? 役場にも行かずに?」

「釣りにっていうか、もらいにだな。今晩のおかずがあるのかって訊かれたから、ないって答えると、じゃあ、そのへんで一匹二匹釣ってやるってね。で、ついていったんだけど、あのおっさん」

 香はぶぶっと吹き出した。

「全然釣れねえの。二時間だよ、二時間。ぼけーっと、おっさんと海を見てただけ。なんだ、これ。しかも、途中からおっさん、意固地になっちゃって。俺、もういいって言っているのに、ここで諦めたら男が廃るとか何とか。でも、それまでにもう二時間だからね。廃るも何もねえじゃん? 俺、あまり気が短い方じゃないんだけどさあ、さすがに苛々してきて、最後にはおっさん振り切って」

 このままでは埒が明かない。紗江は「わかった。もうわかった」と香の話を断ち切った。いきなり強制終了させられた香は広げた両手の持っていき場を失ったらしく、意味もなく紗江の肩をぽんぽんと叩いてから、髪をくしゃくしゃと掻きむしった。

「で、そもそも沖田さんに何の用事があったの? 釣りに誘ったわけじゃないんでしょう?」

 すると、ぐしゃぐしゃになった前髪の隙間から香の目がうれしそうに輝くのが見えた。そしてまた、壊れたおもちゃのようにしゃべるのが止まらなくなる。ここにきて、なんだか目つきも怪しくなってきた。

「墓参りに行こうと思って、あっ、寺の方じゃなくて。あっちはもう行ったから。そういえば紗江も一緒だったっけ? まあ、そんなことは今はどうでもいいんだけど。で、あの後ふと、そういえばあっちの墓のことを思い出したんだ。それまですっかり忘れていたんだけど。ほら、三神島。あれ、島の人はみかん島、みかん島言うけど、地図を見たら、みかみ島なんだ。知っていた? ああ、知っていたの。まあ、島の名前なんかどうでもいいや。で、三神島に行かなきゃと思って、でも、あそこ今誰も住んでいないだろ。昔から住んでいなかったけど。墓も、俺がいた頃からけっこう放ったらかしって感じだったし、今どうなっているんだろうと思って。山に帰ってんじゃねえかってね。で、あちこち聞いて回ったらさ、沖田さんが最近三神島に行ったって小耳に挟んでさ。どんな様子なのか、訊いてみようと思って。それなのに、あのおっさんときたら、釣りに夢中で全然俺の話を聞いてくれないの」

 ああ、話が戻った。紗江は頭痛を覚えて、思わず額に手をやった。沖田さんだってきっとこうだったに違いない。香が何を言いたいのか、彼の話を聞いても全く分からないし、聞けば聞くだけ、頭が痛くなる。

 紗江が額をおさえてため息をついている間に、香はどこを旅してきたのか、なぜか今度は沖田の奥さんの物まねをおっ始めている。紗江は物まねに興じる香の手を引っ張って、無理矢理腰を下ろさせた。

「三神島に行きたいの?」

 香は額の汗をぬぐうと、「そうそう、その話」と紗江の顔を思いっきり指さした。

「最近、三神島には行っていないんだってね」

 香にそのつもりは全くないだろう。しかし、紗江はなぜか自分の不手際を指摘された気がした。墓参りに行かなかったことを責められた気がしたのだ。よく考えたら、香に責められるいわれなんか全くないのだが。それなのに、言い訳がましく言う自分にうんざりした。

「ばあちゃんが行かんでええって言うから。最近は他の家でもお盆くらいしか行かんし。最近は……そうね、私は大人になってからは行ってないかな。母さんらも多分行っていない。ばあちゃんはお盆とお彼岸には行っているみたいだけど」

 祖母は三神島に行っている。でも、なぜか一人で行きたがる。誰もついてくるなと言い、自分で船を操って行くのだ。祖母はお嬢様気質のため、そういうことも珍しくなかった。旅行だって一人で行っていたくらいなのだ。だから、数年前なら気にも留めなかった祖母の態度だが、さすがにここ一、二年はめっきり弱った。年に二回、島の掃除に行く父の話では、三神島の墓地に続く道はあちこち崩れていて、昔に比べてたいそう足場が悪くなっているそうだ。三神島で転倒したって、誰も気づかない。紗江がそれを心配して「一緒に行く」と言っても、祖母は否と言った。母が「一緒に行く」と言ってもだめだった。さすがに祖母の意固地に不審を覚えたので母に訊いてみると、母は肩をすくめて「仕方ないんよ」と教えてくれた。「あの島にはばあちゃんの子ども、母ちゃんの弟か妹が眠っているんよ。死産だったんだ。ばあちゃんは今でも忘れられないんよ。特に、悠太朗が死んでからは……思い出すことが多くなったみたい」

 紗江が回想を断ち切ると、香はまだしゃべり続けていた。

「道は大丈夫なんだって。墓までちゃんと登ることができるって。だから、いつでも墓参りには行くことができるんだけど、なにしろ、忙しいじゃん。もう、すぐ四十九日だろ。相続のこともあるし、ここもちょっと片づけたいし」

 香は顎で背後を指した。その方向には蔵がある。

「行くとしたら、四十九日の後になっちゃうよなあ。ああ、そうだ」 

 香は手で膝をぽんと叩く。

「俺がいない間、蔵の中のもの、触った?」

 香の質問に今度は紗江がむっとする。紗江は自分の不快な気持ちがきっちり伝わるように憮然と答えた。

「うちがお宅の家財道具を勝手に持ち出して売り払ったとでも?」

 香はきょとんと首を傾げた後、ようやく紗江が怒っている理由に思い当たったらしく、髪をかきむしりながら意味不明の言葉をもつれる舌で重ねる。どうやら釈明をしているらしいが、早口なうえに舌をかんだりもつれたり……紗江の耳には単語すらほとんど聞き取れない。聞き取れた単語をつなげてみたところ、どうやらこのようなことを言いたいみたいだ。

「そういう意味じゃなくって、そういう意味ってなんだ?」

「私に訊かないでよ」

「夜、物音がするからさ」

「物音?」

「誰かいるのかと思って見に行ったら、蔵の壁にこのくらいの穴が」

 言いながら、香は両手の親指と人差し指で輪っかを作った。

「そこから猫が入っていたみたい。泥棒じゃなくてよかったよ。とりあえず、そのへんの段ボールを移動させて穴を塞いだんだけど、どうして壁に穴なんかあいたのかなあと思って」

 紗江も本家の蔵に入ったことがある。一番最近ではさっちゃんたちの十三回忌のときだ。法事で使うお椀や座布団を出した。あのときは、穴はあいていなかった。

「さあ、でももう古いけえ、朽ちたんかもね」

 香は靴を脱いでくると言って立ち上がった。勝手口に回る香の背中に呼びかける。

「ああ、そうだ。香、うちに顔を出してよ」

「えっ、また怒られに行くの?」

 肩ごしに香は顔をしかめた。

「その方が身のためよ」

 紗江の言葉が香の耳には意味深に聞こえたらしい。よい兆候だ。島でのコミュニケーションの基本は「みなまでは言わない。察しなさい」だ。香は気が進まない顔をしながらも、「はいはい」と頷いた。

 

 紗江には腑に落ちないことが多かった。一晩悩んだ後、結局、翌日になってもう一度沖田家を訪ねることにした。