実が落ちる前に

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現在③-7 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「父さんが怪しい袋を車に積んでいたという目撃情報もあるのにね。心のどっかでそんなはずはないって」 

 紗江は言葉がなかった。

 彼の気持ちを全く考えていなかった。それほど紗江にとってあの事件は遠い昔の出来事になっていた。十七年という年月が自分と彼の間では全く違う濃度で流れていたということに紗江はもっと早く気づかなければならなかった。紗江にとっては子供時代の一つの思い出、だが彼にとっては大変だったね、でもこれですっきりしたねと笑って済ませられる過去ではない。

 心中事件について、紗江には当事者意識があった。だから自分は洋子の行方を知る権利があると思い上がっていた。

「ごめんなさい。私、無神経だった」

 香はきょとんと目を丸くする。

 紗江は正座を崩した。少ししびれた足の裏に手をやる。

「私、子供なんだ。考え方も振る舞いも。常識がないっていうか。もういい年なんだから、もっと大人にならなきゃいけんのに」

「大人って、紗江、俺より年下じゃん。まだ二十……」」

「もう二十六」

「もうって、お前、いつの時代だよ。クリスマスケーキ世代?」

「働いていないし」

「俺なんかもうすぐ三十だけど、働いていない」

 やっぱり働いていないんだ。なんとなくそんな気がしていたが、紗江は少しほっとする。同病相哀れむ、いや違う、香は介護していたから働けなかったのだ。紗江みたいにぼんやり過ごしていたわけじゃない。それに、と考えると、紗江は胸がぎゅっと苦しくなる。

「大学も卒業できんかった。退学したの。高い学費を払って、町にも出してくれたのに、私、ちゃんとできなかった」

「はあ……」

 香は気の抜けたような相槌を打った。紗江に呆れているのか、馬鹿にしているのか。香はどこの大学を卒業したのだろう。

 香は紗江の視線に気づくと、ちょっとびっくりしたような顔で「ああ、俺の番?」というように、首を傾げた。

「俺の目には紗江はちゃんとしているように見えるけどなあ。おじさんもおばさんも紗江が島に帰ってきて、うれしいと思うよ。この前、ごちそうになったときだって、おじさん、口を開けば『うちの紗江が、うちの紗江が』って」

 香は思いだしたのか、くすっとおかしそうに笑う。

「父さんは私に厳しいことは言わないから。でも心の中では、がっかりしていると思う」

 紗江は体育座りになって、膝に顎を埋めた。

「うちの親は、東大に行けなんて言わない。大会で一位を獲れとも。反対に、学費を稼げとか、親の借金を肩代わりなんてことも」

 大学にはいた。紗江は、そんな親がいることに驚いたものだ。世間知らずなのだ。

「私に期待されていることはごくごく簡単なことなのに、それすら上手くこなせない」

 紗江は、心の中でさんざん香を馬鹿に……いや、馬鹿にしたわけではないけれど、呆れていた。でも、何のことはない。馬鹿は自分の方だ。何もできない自分、人並みにできることなんて一つもない。いつも逃げてばっかりで、いざとなったら投げ出して、部屋の中に閉じこもる。ああ、嫌だ。

「どうしてうまくできないんだろう」

 それは、紗江が普通以下だからだ。ずっとがんばってきた。普通以下の子が努力して、皆の普通になんとか追いついていた。高校までは、普通の子が少し道を踏み外したり、明後日の方向に突っ走ったりすることもあるから、紗江は少しだけ平均よりも上に行くことができた。紗江は優等生だったのだ。でも、それは勘違いだった。ある日突然、躓いた。元々、普通以下なのだ。普通以下が躓いて、普通から脱落した。追いつくわけがない。最初の頃はそれが分からないから、なんとか追いつこうと皆の背中を追いかけた。追いかけて、息が切れて苦しくなって、もうやめた。やめた後は何もやる気が起きなくなった。だから、島に帰った。

「紗江は落ちこぼれじゃないよ。落ちこぼれは俺みたいに、子供の頃から落ちこぼれてんだから」

 香の慰めは空虚だ。いつもの無意味な言葉の羅列よりもさらに無意味だ。だから、紗江の耳を素通りした。それなのに、紗江が顔を上げたのは、慣れない香りが紗江の鼻孔を刺激したからだ。

 香の口には煙草があった。香は横着に腕だけを伸ばして、部屋の隅にある灰皿を引き寄せる。灰皿はその昔、武朗が使っていたもので、今まで気付かなかったが吸い殻が数本入っていた。

「香、煙草を吸うんだ」

 知らなかった。

 紗江の父親は煙草を吸わない。だから、煙草の香りは紗江にとってはなじみのない香りだ。電車の中だったら、喫茶店のソファに染み付いた前の客の残り香だったなら、紗江は顔をしかめていた。でも、今はそれほど嫌ではなかった。

 香は煙草の箱を手の中でもてあそびながら言う。

「紗江は大丈夫。紗江は真面目じゃん。ちゃんとできる。紗江が思っているほど、紗江は子供じゃないし、弱くないよ」

 大丈夫、真面目、弱くない……根拠もないくせに、そんなことを軽々しく言わないでほしい。それも繰り返し言うなんて……うっかり信じてしまいそうになるじゃないか。紗江は胸に寄せた膝に顎を埋めた。

「さっきだって、無神経だなんて全然思わなかったし。どこが無神経だったのか、いまだにわかんないくらいで。あれが無神経なら、俺なんか、いっつもだよ。口に出してから、『言わなきゃよかった』って思うこと、多いもん。反省してもまた同じことしちゃうし。調子に乗るとついね、言い過ぎる」

 灰皿に吸い殻が一本増える。

「まあ、紗江は昔から慎重派だもんなあ。俺が失敗して父さんやらお宅のおばちゃんやらにどやしつけられて、沙紀は笑ってごまかして、その後で恐る恐る紗江がついてくるって感じ。あれ、二人して俺に先にやらせてさ、様子見てたんだろ」

 紗江の目の前に懐かしい光景が浮かんだ。自転車の乗り方も立ち泳ぎの仕方も、全部香に教えてもらった。というより、生傷だらけの香を反面教師に紗江は体得した。山の斜面をダンボールで滑り下りる、その遊びも香の右腕骨折の犠牲があったからこそ、紗江と沙紀は危険なコースを避けて遊ぶことができた。香は骨折をした挙句、おじさんに拳骨を食らっていた。

 香を見た。香も紗江と同じ光景を見ていたのだ。だって、煙の向こうで香はお兄ちゃんの目をしている。「腑に落ちない」とすねるような、それでいて諦め半分の優しさが浮かんだ、懐かしい目だ。

 香も、らしくない自分に気付いたらしい。恥ずかしそうに掌で伏せた顔を隠した。

 そっかと紗江は気づいた。自分は慎重なのではない。自分を信じられない、だから一歩先に進む勇気を持てない。一歩先の世界でうまいことやる自分を想像できないから。慎重を言い訳に、逃げてばっかりだ。そのせいで、紗江は未だに大人になれない。大人になるために必要なことをしてこなかった。

「経験しておかなきゃいけないことを経験してこなかった気がするの。ゲームでさ、必要なアイテムをとらずに次のステージに行っちゃったみたいな。私が引きこもっている間、皆が当たり前にやっていたことを私は何もしていない」

 皆との差は広がるばかりだ。でも、皆って誰だろう? 同級生? クラスメイト? どうして今更同級生と比べなきゃいけない。最後に学校に行った日から何年経っている。他の子はもう、学年だとか、年齢で「勝った負けた」なんて考えていない。全く別の物差しで、それはきっと勤続年数とかキャリアだろう、そんなもので測って……この考え方もきっと子供じみている。

「たとえば?」

 香に促されて、紗江は脱線しかけた思考を戻す。

「飲み会、ビールの注ぎ方。高校生とは違う人間関係。バイトでお金を稼ぐこと。頭の下げ方、口の利き方。男性との付き合い方。キスもセックスも」

 香がぶっと噴き出し、噎せる。噎せて香の上半身が大きく震える度に、指で挟んで煙草の灰が香の膝の上に落ちる。香は噎せたり、「あっつ」と灰を払ったり。ああ、忙しい人だ。紗江は香の膝に手を伸ばした。