実が落ちる前に

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過去③-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 あれから恵理は顔を見せない。香はその事実を淡々と受け入れる。謝るのも拗ねるのも面倒臭い。屈託なく会えないのであれば会わない方がいい。何枚かの皿が割れただけ、煙草の量が少し増えただけ。それでも武朗にも食事を与えているし、日々の家事も滞りなく行っているし、特に問題はない。

 香は買い物袋を提げて、夕方の街を歩く。右手にインスタントラーメンとレトルトのカレーと六缶パックの発泡酒、左手には介護用おむつとウェットティッシュ、ほどよい重みで袋は前後に揺れる。その度に太腿に当たった。台風前の風は少し湿っている。今年いくつ目の台風か。季節はいつも、香の気づかないうちに進んでいる。

 恵理のことはもういい。この頃、香の頭を占めているのは彼女のことではなく、警察署に置いたままの骨のこと、十六年前のあの夜のこと、そして自分に流れる血のこと。武朗の顔を見るとき、嵐の前の静かな夕暮れ時、一人でこうして歩いていると、島のことが、事件のことが香の頭について離れない。考えないということはもうやめた。考えずにはいられない。考えれば考えるほど、苦い思いが喉元までこみあがる。

 思い出してみれば、自分はいつも何か足りないものを探していた。早く見つけなければという焦燥感に駆られていた。そのせいで香には妙にハイになるときがあって、そんなときには自分でも箍が外れていることを自覚していた。恵理に湯呑を投げつけたときのように、後になって「やらなきゃよかった」と後悔する。

 アクセルを踏み込み、高速道路を駆け抜ける。その先に探し物があるはずだ。でも、自分はきっと、そこに辿りつく前にハンドルを切ってしまう。何も手にすることもなく、ガードレールにつっこんで、この身体ごとこっぱんみじんになるのだ。

 いくら隙間があったって、粉々になればもうおしまい、器であるから隙間ができる。器が粉々に砕ければ、破片が隙間なく積もるだけ。ちりとなって土に戻るだけ。

 なんだ、じゃあ、結局同じことじゃんか。何を手に入れようとも、何も手にできなくても、そのうちこの隙間はなくなる。

 目をつむり一歩前に進む。それで足りないものは手に入る。結果はどうであれ、この隙間も埋まるだろう。

 香は一本道に坂道を一歩ずつ登っていく。下を見て、外灯の影を数えながら、坂の頂上を目指す。何台か、香の脇を自動車が通った。自転車ともすれ違う。香は珍しく、脇目も振らず、足元だけを見つめた。

 坂の頂上で立ち止まる。切れた息を整える間、振り返りたい衝動に駆られたが、香は誘惑を押しとどめた。振り返るにはまだ早すぎる。

 香は平屋を借りて住んでいる。一人暮らしをしていた頃は普通の学生用アパートに住んでいたが、武朗を引き取ったのを機にアパートは引き払った。あの部屋じゃあ、介護用の大きなベッドは入らない。そもそも、エレベ―タなしの五階なんて論外だ。

 借家には門扉から玄関までの間に小さな庭兼駐車場がある。入浴サービスの日は、ここに移動式浴槽を載せた大きな車がとまる。

 香は門扉を開けたところで、居間の明かりに気がついた。

 玄関の引き戸に手をかける。鍵は開いていた。

 恵理が来ているのか。

 引き戸を開ける、その一瞬、香は自分がためらっていることに気付く。知らず知らずのうちに、手に力が入る。

 ただいま、とでも言うべきか。

 きちんと揃えられたパンプスを見下ろして、香はしばし考える。意を決して顔を上げたとき、香は物音が思ったよりもずっと近くから聞こえることに気付いた。

 居間は廊下の突き当り、その前が自分の寝床、そして一番手前は武朗の……

 また、かたっと音がした。

 香は足元に買い物袋を置いた。静かに玄関の戸をしめる。そして、物音を立てぬよう靴を脱ぎ、足音を殺して廊下を進んだ。

「何しているの」

 声の冷たさに自分でびっくりする。

 振り返った恵理。恵理はベッド脇にいた。武朗のはだけた胸元を拭いていた手を止める。

 武朗に向かって屈めていた上半身を起こし、恵理はベッド脇に立ち上がる。そして何か言った。

 名前を呼ばれた気がしたが、よく聞こえない。香は恵理の動く唇だけを見ていた。

 何をしに来たんだ。俺に会いに来たんじゃないのか。だったら、なぜそんな男の身体を触る。

「何勝手なことをやってんだよ」

「何、急に怒ってんの。おじいちゃんが汗をかいていたから拭いていただけでしょう」

「俺がそんなことをしろと言ったか。いつ頼んだ? 頼んでないだろうが」

「私は、香の許可がなきゃ、おじいちゃんの世話をしちゃいけないの」

 おじいちゃん……?

 唇が震える。笑いがこみあがる。

 何がおじいちゃんだよ。恋人でもない男の……自分と血もつながっていない男をおじいちゃん? 何を言っているんだ、この女は。この女がやっていることは……

「男の体、触って……何、お前。欲求不満なの」

「何、言ってんの。馬鹿じゃない?」

 恵理はそう言って、タオルを持ち直す。香に背を向ける。

 耳の奥、脈打つ音が聞こえる。

 武朗の胸元、浮いたあばらが上下する。

 生きているのだ。立ち上がることも、自分の身体を拭くこともできないくせに、この男は生きている。ベッドに寝転がったまま、指一本動かさず、眉一つ動かさず、香を、恵理を縛り付ける。昔からそうだった。家を、家族を、島を……外から支配する。

 恵理の手が動く。指先が武朗のあばらに触れる、その瞬間。

 香は叫びそうになった。

 香の耳に飛び込んだのは恵理の悲鳴だった。

 恵理はしゃがみこみ、ベッドの柵に両手ですがっている。死にもの狂いだ。その恵理の抵抗に香はよりいっそう我を失った。

 恵理の長い髪が目に当たる。ああ、苛々する。

 恵理のうなじが震えている。そんなにこの男の傍にいたいのか。

 ベッドから引きはがされた両手を恵理はぐるぐる回す。でも香は彼女を背後から抱きかかえているから、いくら手を回そうが、香には当たらない。当たらないけれど、恵理の拒絶を目の当たりにして、苦い汁が胃からせり上がる。

 武朗の部屋から恵理を引きずりだす。彼女を羽交い絞めにしたまま、武朗の部屋のドアを足で蹴り閉めた。その音が廊下にこだまする。

 香は恵理の体をさらに引きずる。

 自分の寝室の前で、香はやっと一つ息をついた。腕を解く。痺れてだるい腕を床にだらんと投げた。香と恵理の体重はそう変わらないはずだ。人はキレると思いがけない力を発揮するもの、香にも覚えがある。火事場の馬鹿力というやつだ。普通だったら、できないことを……火事場では……正常な判断力を失って……

香は頭を振った。

肩で息をする。苦しい呼吸をしているはずなのに、聞こえてくるのは自分の呼吸の音ではない、恵理のしゃくりあげる泣き声だけだ。

 香は両手で耳をふさいだ。

 女の泣き声は嫌いだ。嫌でも思い出す。火が追ってくる。髪が焦げる、熱い、「逃げろ」の声、早く、早く、早く。早くしないと、全て燃えてしまう。

 香は立ち上がった。

 床にへたり込んだまま泣く恵理、その前に回り、正面から恵理の肩に手を置いた。そして、その手で思いっきり、恵理の上半身を押した。

 仰向けに倒れた恵理に跨った。