実が落ちる前に

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過去③-2 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 はき出すだけはき出した後、香は恵理の体から離れた。廊下の壁に背をつける。恵理は体をくの字に曲げていた。ひとしきり泣いた後、恵理はのろのろと起き上がる。シャツの裾がきちんとスカートの中に入るところから、乱れた髪が手櫛で元通りに、まるで何事もなかったかのようになるまでの過程を香はぼんやりと見つめていた。

 殴っただろうか。恵理の頬に痣がある。

「どうしてこんなことするの? 私、そんなに悪いことした?」

 恵理はこちらを向かない。

「香、変だよ。頭おかしい」

 頭おかしい。おかしいんじゃないの。

 香は掌に額を載せた。

 聞こえてきたのは聞きなれた女の声ではなかった。

(頭おかしい。いくら火事で気が動転していたからって母親を)

 違う、母親じゃないんだ。

(母親じゃないならなおさらだろう。今まで育ててもらった恩を忘れたのか)

 そんなわけがないだろう。だからこそ。

(じゃあ、マジでやったわけ? 何なの、それ。マジもんのサイコパスじゃん。それとも、本当にここが弱いの)

 頭にガンガンと痛みが走る。

 今度は笑い声だ。

(見てみろよ、この男。人助けと人殺しの見分けもつかないんだぜ。頭が少しおかしいんだ)

 耳をこだまする笑い声。

 香は顔を上げた。恵理の見開いた目がそこにあった。

 香は「ああ」と息を吐いた。

 この声は自分だ。

 子供の頃から、心の中で繰り返し唱えてきたお題目だ。

 ぶつける相手がいなかった。父さんはもう死んでしまった。本当は父親の胸ぐらを掴んで問いつめたかった。「なぜ大切な家族を殺したの。どうして一人で死ななかったのか」と。何も答えず逃げてしまった父親を憎んでいたのに、今ではそっくりそのまま自分にはね返る、「なぜ殺したの」と。

 さすが親子だ、二代にわたって同じ過ちを繰り返す。

 香は、今度は本当に声を出して笑った。

 違った、違った。馬鹿は……人殺しは俺だけだ。

 笑って、笑って、笑い転げて、香は床に額をつけた。

 気づくと、恵理はいなくなっていた。

 

 一晩明けると、後悔が津波のように襲ってくる。いつものことだ。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。

 香は今日何度目かの後悔の波に襲われて、床に膝をつく。頭を抱え呻いた。

 床で蹲り、「あー」とか「うー」とか呻く香の背中に田中寿子の張りのある声が飛んでくる。

「そんなに悩む暇があったら、ちゃっと謝りに行きんさい」

 田中寿子は訪問看護サービスの看護士だ。週に二回やってきて、武朗の脈やら体温やらを測る。体を拭いたり、おむつを替えたりもしてくれる。

 香が床から顔を上げると、寿子の白い背中が見えた。後ろからでも寿子のきびきびとした手つきが分かる。体温計の数字を手帳に書きこみながら、寿子はさらに言う。

「どうせ、また恵理ちゃんを怒らせたんでしょう?」

「どうして分かるかなあ」

「香君の頭の中には恵理ちゃんのこと以外入っていないんでしょう?」

「そんなことないよ。もっと色々考えている」

「嘘つきんさい」

「おじいちゃんのことだって考えているし」

 すると寿子は呆れた顔で振り向いた。

「適当なことばっかり言っていると、口が曲がるんじゃけん。今日だって私が来ること忘れとったくせに」

 それは本当だったから、香は苦笑するしかなかった。新聞の勧誘だと決め込んで、寿子を二十分も玄関先で立ちん坊にさせてしまった。

 寿子は一つ溜息をついてから、鞄に体温計やら聴診器を片付け始める。もうすぐ訪問看護も終わりだ。香はちらりと壁の時計を見上げた。

 寿子は重そうな鞄を肩にかけ立ち上がる。香も同時に立ち上がった。一緒に武朗の部屋から出る。寿子は武朗の部屋のドアを静かに閉めると、香に顔を近づけた。

「前から言うとるけど」と、寿子は声を潜める。

「武朗さんのことも大事じゃけど、武朗さんのことよりも、自分の将来のことを考えなさい」

 返答に困って目を丸くする香に、寿子は「わかった?」と念押しをしてきた。香は仕方なく、頷いた。

 夜になって、武朗に飯を食わせて、今度は自分のために電子レンジに冷凍ご飯を入れる。

 電子レンジの回るターンテーブルを覗き込んだ。見つめていると目が回る。思考もぐるぐる同じところを回り続ける。

「やめた」

 香は電子レンジの扉を開けた。そして、玄関の鍵をポケットに入れた。