実が落ちる前に

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過去③-3 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 恵理が住むアパートまでは三十分、徒歩で行く距離だが、今日は電車に乗った。気が急く。これで十分の節約だ。

 会社帰りのサラリーマンとは反対方向の上り電車だから空いている。香はドアに肩をつけ立ち、苛々と腕を組む。電車が大きく揺れて、ホームに止まる。香とは反対側のドアが開く。

 そのときだった。

 香は顔を上げて、車両の中を見回した。

 気のせいか。

 恵理がいた気がしたのだ。でも、車両の中に恵理はもちろん、香の見知った顔はいなかった。ドア脇の二人掛け席、そこで単語帳を開く女子高生と目が合う。女子高生の怪訝な目、痴漢と間違えられたかもしれない、香は顔を反対に向けた。ドアのガラス越し、女子高生の視線が突き刺さる。

 やっと駅に着き、香はホームでため息をついた。

 恵理のアパートは駅のすぐ近くだ。

 香はホームをすり抜け、駅の階段を早足で駆け下りる。最後の二段で惜しくもつまずき、慌てて手すりにつかまって、胸に手を当てる。だが落ち着く間もなく、信号の点滅する横断歩道に滑り込んだ。大通りから一本、路地に入る。車一台分の幅の道、外灯の明かり、その向こうに建つ白いアパート。 

 香がここに来るのは三度目だ。普段は寄り付かない。恵理の恋人に悪いし、妙な誤解をされたらそれこそ恵理に恨まれる。今の彼氏は顔も良くて高給取りでいいところのお坊ちゃん、恵理の玉の輿はもう目前なのだ。

 アパートにはエレベータがあるが、香は階段を上った。

 恵理の部屋は三階、一番手前の部屋。

 踊り場から廊下に出る。香は立ち止まった。

「香」

 恵理の泣き顔、香の顔を見て泣き出すのなら分かるが、どうして自分が来る前から泣いているのだろう。こいつは予言者か、それとも千里眼か。香は戸惑いつつも、恵理の頭に頬を当てた。恵理の背中に腕を回す。そうしながら、香はやっと恵理が泣いている理由に気付いた。

『二股淫乱女』

 香は恵理を抱く手を玄関ドアに伸ばして、張り紙を剥がした。

 

 香はどちらかといえば自分がパニックになる側だ、人をなだめたりすかしたりするのには慣れていない。

 背中で玄関のドアを閉め、ドアに背をつけたままその場に尻を下ろす。半畳もない玄関に大の大人が二人尻餅、香は靴も脱げないから窮屈に脚を折った。恵理が胸にしがみつくから、恵理の髪の毛が口に入ってくる。香は恵理の背中をさすった。よく見ると、恵理の右足のパンプスがない。見回すと、なぜかキッチンのシンクの下あたりに転がっていた。

「手紙が来るの」 

 しゃくり上げる合間、恵理は切れ切れで言った。

「手紙?」

「ちゃ、茶封筒に入って、中に紙が。同じことが書いてあって、それで」

「同じことって、二股とか淫乱とか?」

 恵理が頭を動かす。恵理の額が香のあばらを叩く。

「いつから」

「半年くらい前」

「半年?」

 思わず声がひっくり返る。だって、今まで恵理の口からそんな話を聞いたことがない。香はさらに問い質そうとしたが、問い質す言葉を探す前に、自分にその資格も義務もないことに気付いてやめた。

それにしても、「二股」はまずい。香は冷や汗をかく。

 恵理は会話を始めたことで、だいぶ落ち着きを取り戻したらしい。

「これ、ストーカー? それともお前の恋敵?」

 恵理の恋人はいい男だ。さぞやモテることだろう。

「知らない」

「心当たりないの」

「あったら、こんなに怖くない」

 そういうものだろうか。あいにく、香には経験がないから分からない。

「二股って俺のことだろ? 誰かに俺のことを喋ったんじゃねえの。ほら、会社の同僚なんかに。で、そいつもお前の恋人の、何だったけ、ゆうすけ君? あいつのことが好きでさ。この女、許せない。ゆうすけ君がいるくせに、他の男ともいちゃいちゃするなんて、みたいな」

「喋んないよ、香のことなんか」

「じゃあ、俺といるところを見られた?」

 それは否定できないらしい。恵理は黙りこくって、香の胸元に鼻水をつける。

「ゆうすけ君には相談してる?」

 恵理は首を横に振る。

 そりゃあそうだろうな、と香も思う。「心当たりがあるのか」なんて訊かれたら、返答に困ってしまうだろう。

 色男と付き合うのも大変だ。香は恵理の背中をぽんぽんと叩きながら、ぼんやりと思った。こんなに泣いて、取り乱して……昨夜、自分との間であったことなんか、恵理にとっては重大なことではないのだろう。

 一時間後、恵理は眠そうな顔を上げた。香は「今日はもう寝たら」と恵理にベッドで寝るようにすすめた。

「お風呂に入らなきゃ寝れない。明日も会社だもん」

 恵理は目をこすりながら、拗ねた口調で言う。落ちた化粧で汚れた彼女の顔は、いつもよりもずっと幼い。香は乱れた恵理の髪を整えてやる。

「香には分かんないだろうけど」

 それは八つ当たりだろうと思ったが、香はこれ以上噛みつかれないよう、保身のために口をつぐむ。不思議と腹は立たなかった。子供っぽい恵理が新鮮だった。もしかしたら、恋人の前の彼女はこうなのかもしれない。普段は香の方があれだから、恵理は分別くさく振舞うしかないのだろう。

「そういえば」

 と、恵理は何かに気づいたように目をこする手を止めた。

「香、何しに来たの?」

 香は首を傾げて、

「うーん。何でだっけ。忘れちゃった」

「もう、何それ」

「散歩がてら寄ってみただけだよ」

 恵理は「珍しい」と小さく笑ってから、

「でも、もうあまり来ないでね」

 香は「うん、わかっている」と呟き、恵理の髪に唇をつけた。

 

 恵理のアパートに行ったのが三日前。

 香は相変わらず、夕方の街を歩いている。右手にスーパーの袋をぶら下げて。

 上から遮断機が下りてきた。

 踏切の向こうでも、香と同じように電車が通過するのを待っていた。

 小学生の少年と父親の親子づれ。単線の踏切だから、カンカンとなる遮断機の音の中、親子の会話も香の耳まで届いてくる。

 少年は「ランドセルを持って」と父親にせがむ。父親は、自分の荷物は自分で持て、息子に言い聞かす。「男だろう」と。

 電車が通り過ぎた後、ランドセルはきちんと父親の肩にかかっていた。

 遮断機が上がり、香と親子は線路の上ですれ違う。

 香は俯いたまま、一歩一歩前に進む。自分の足先だけを見つめた。

 角を曲がろうとして、自動販売機に肩をぶつける。

 坂の頂上で立ち止まり、振り返る。

 夕暮れ、夜のとばりが下りて、家々の明かりが街を照らし始める頃。

 いつかと同じ光景を見た。懐かしさはあった。けれど、それ以上に虚しさがこみ上げた。だって、そうだろう? 俺は決して同じ道を歩いたつもりはなかったのだから。

 泣きたくなるのだ、こんなときは。自分はどこへ向かって進んでいくのだろう。