実が落ちる前に

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現在④-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 その日の夜中。紗江は眠気を感じなかった。ベッドの上でごろごろと寝返りを打ちながら、昼間のことを思い出す。

「紗江ならどこへだって行けるよ」

 香はそう言った。

 そうだろうか。

 紗江は考える。

 本家からの帰り道、風がすっと、紗江を追い越した。

「島を出てどこへでも」

 本当だろうか。

 紗江は体を回転させ、枕に頬杖をつく。

 枕元の目覚まし時計に目をやり、枕に顔を突っ伏した。

 明日が見えない。

 両手で耳をふさぐ。

 そして、洋子のことを考え始めた。

 海から引き上げられた白骨遺体は洋子ではなかった。香は「ほっとした」と言っていたけれど、香だって、洋子が生きているとは思っていない。

 洋子が死んでいるとしたら、それはやっぱり悠太朗が殺したということになるだろう。心中事件とはまた別個に、洋子が事故や自殺に遭った可能性は……さすがにそんな偶然は考えられない。

 悠太朗は洋子を殺した。洋子の遺体は見つかっていないけれど、それはきっと事実だ。

 水城悠太朗とはどんな人物だったのだろう。

 紗江が思いだせることはそう多くない。

 小柄な人だった。島に高身長の男は少ないが、島の男は小さいなりに筋肉がついた体つきの人が多い。悠太朗は体つきも華奢だった。だが、学生時代は剣道部だったため、姿勢だけはよかった。悠太朗は自分に似て子供の頃から小柄だった香にも剣道を習わせたがったが、あいにく香は三回道場に通っただけで逃げ出してしまった。

 そういえば、と紗江は自分と同い年のいとこのことを思い出す。

 というよりも悠太朗のことを考えれば、彼女の面影も思い出さずにはいられない。親子なのだから当然だ。

 香だけじゃない、沙紀も父親似だった。

 悠太朗が荒い声を出す姿はほとんど見たことはない。自分の子供を叱るときは顔を真っ赤にして、唇をきっと結んでいた。沙紀は父親の無言の叱責にあうと、それまでのお姫様ぶりが嘘のよう、わんわんと泣いていた。

 多分、島には向いていない人だった。「本家の倅」、悠太朗は結局死ぬまでそう呼ばれていた。単体としての存在感は全くない人だった。

 血は繋がっていなくても、悠太朗は洋子を大切にしていたと思う。親戚の中では肩身の狭い洋子だったが、悠太朗が母親として洋子を立てることで、親戚連中の前でも洋子は体面を保つことができた。一方で、うちにもちょくちょく顔を出していた。祖母は悠太朗が来るのが待ち遠しく、目と鼻の先というのに、本家に帰る悠太朗をいつまでも引き止めていた。二人の母親に対して、悠太朗はこれ以上ないほど孝行息子だった。いつもにこにこ笑っていたが、悠太朗は決して仲のよくない二人の間で相当神経を使っていたと思う。もしかしたら、島での悠太朗の存在の希薄さはここに原因があるのかもしれない。悠太朗は自分のエネルギーの全てを、二人の母をとりもつことに費やしていたのだ。島のあれこれにまで気を回すことができなかったのだろう。

 当時の紗江の目にも、そして今思い返すとさらに、悠太朗が洋子を殺すなんて想像もできない。

 香はどうなのだろう。昼間はあんなことを言っていたけれど、心の中では、やっぱり悠太朗が洋子を殺したと思っているのだろうか。そうでなければ……島中が、悠太朗が洋子を殺したと信じているのだ……そんな島に帰ってきて、彼が平常心でいられるはずがない。

 一方で、彼はどうして自分の父親の無実を信じないのだろうとも思う。紗江でさえ、「まさか」という気持ちが今では強いというのに。親子ならば、本人の口からそうと言われるまでは……まあ、悠太朗はもう死んでしまったのだから、彼自身の口から真実を知らされる機会は香には与えられなかったのだが。それでも、少なくとも洋子の遺体が発見されるまでは、父親の無実を信じるものではないだろうか。

 そのとき、紗江の頭に別の考えが浮かんだ。

 香が父親の無実を信じられなかったのは、父親の犯行だと信じるに足る何かを知っているからではないか。

 香は島をずっと空けていた。事件に関係のあることを知っているとしたら、それは、事件当時に知ったに違いない。

 あの頃、香には紗江とは全く違う景色が見えていた……?

 紗江が子供だったように、あの頃の香も子供だった。だから自分と同じように、香も何も知らないのだと思い込んでいたけれど、香は紗江が気づかなかった悠太朗に殺意に気付いていたのか。

 頭の中に当時の記憶がよみがえる。

 当時、警察が洋子の失踪をどう処理したのかは分からない。だが、遺体もないのに悠太朗が洋子を殺したことは事件直後から島では暗黙の了解になっていた。遺体が見つからないのならば海に捨てたのだろうという漠然とした想像が島の人達の頭にはあった。

 振り返ってみると、香だけではなかったことが分かる。島の人達はおろか、紗江の母や祖母でさえ、悠太朗が洋子を殺したという推測に異を唱えなかった。

 どうして誰もかれも、あの優しい悠太朗が洋子を殺したのだと信じたのだろう。

 悠太朗が自分の妻と娘を刺したからだろうか。

 たしかにそれは動かしがたい事実であり、その事実だけで紗江が唱える「優しかった悠太朗」の前提は崩れてしまう。優しい夫であり父親が自分の家族を殺すはずがないからだ。つまり、悠太朗は紗江の記憶にあるような「優しい男」ではなく、あの頃の紗江は全く何も分かってはいなかったということだ。そして、二人を殺した男にあと一人分の罪を推定することはそう無茶なことではない。無茶ではないけれど……

 紗江はやりきれなさに唾をのみこんだ。

 この考え方は間違っている。いや、考え方というよりも推理の順番か。紗江には逆をいっているような気がしてならない。

 まず洋子殺しがあったはずだ。

 たしか、由紀と沙紀の死亡推定時刻は十九時から二十時の間、悠太朗が軽自動車に袋を積みこんでいるのを目撃された時刻よりも後だった。あの袋の中身が洋子であれば、洋子殺しをまず最初のスタートに据えなければならない。その後の殺人はこれまで信じられた通り無理心中というのならば、それは悠太朗の自殺だと考えた方が自然である。洋子殺しがあり、それを受けて悠太朗は自殺をしなければならなくなった。洋子を殺した時点で悠太朗は人殺しではない。人殺しだから母親も殺すのだろうという考え方はやはり正しくない。

 事件直後に動機が取り沙汰されなかったのは二人を殺したという圧倒的な力を持った事実の前に動機云々は霞んでしまったからか。「なぜ」を考えるよりは「あの人はそういう人だった」という方が楽なのだ。考えることが残っている間は事件はいつまでも終わらない。

 考えれば考えるほど、紗江は大人たちのやり方に感心した。

 悠太朗は見た目通りの人間ではなかった。外からは窺い知れない激情を隠し持っていた。動機なんかどうでもいい、そういう性質を持った人間だから家族を殺した。大人たちは悠太朗の本性を見抜いていた。子供だった紗江は気づけなかった。

 これで納得すればいいのだろう。

 紗江は額を拳でこつこつと叩いて、そこに渦巻く「なぜ」を頭から追い出そうとした。だが、いくら叩いても、疑問をそのままにして忘れることはできなかった。それはとても苦しいことだから。

 大人たちは本当にこんなことができたのだろうか。

 紗江は島の人たち、そして両親や祖母に疑念を持った。

 彼らは「なぜ」の答えを知っているのではないか。信じるに足る動機、「なぜ」の明確な答えを。そして、香もきっとその答えを知っている。

 自分はまだ教えてもらっていないことがあるのかもしれない。

 眠れずベッドから出る。水を飲みに一階に下りた。

 居間の明かりはまだついていた。

「今年はもうけが出んなあ。牡蠣がえらく高かった」

 父親のため息混じりの声に紗江は足を止めた。

「油は高止まりじゃし、海もようなかった。去年は台風が何度もきたし、それに」

 両親はこたつで斜向かいに座っていた。

「シーズンに入った思うたら、広川んとこの筏がやられたじゃろ。貨物船が筏に気付かんとひいてしもうて」

「最近、えらい多いよね。今シーズンだけで何度あったじゃろ。仁君のところもやられたよ。もうええ加減にしてほしいわ。どこに目つけて運転しとるんじゃろうか」

「本当にな」

 廊下から母親の丸まった背中を見た。その向こうに父親の日焼けした頭が見える。

 両親も老いた。二人とももう若くない。サラリーマンだったら、父親はもう定年退職している。

 胸がとくんと鳴る。

 紗江は足音を殺して階段を上った。

 結局その晩、紗江は眠ることができなかった。