実が落ちる前に

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現在④-3 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「本家のおじいちゃんとおばあちゃんには一人も子供が生まれなかったんですか」

 広川のおばちゃんは入れ歯の位置をもごもごと口の中で調節してから、ばけつの中の雑魚を一匹、野良猫に投げた。

「あんたあ、ありゃあうまずめよ。子の一人でもおりゃあ、あんな情けない思いをせんでもよかったじゃろうに。本家さんもようこらえとったんで。あれが嫁いできたんは、わしらんとこよりも早かったけえ、昭和十七年頃じゃろ。あん頃の嫁たあ、あんた、三年子なしは去れいうて、三年子ができんかったら里に返されるのが普通たったんじゃけえ」

 広川のおばあちゃんが言う「本家さん」とは静江のことだ。

 悠太朗は母と年子だから、昭和二十五年生まれだ。母は二十四年の生まれである。二人はその親世代とは対照的に結婚や出産が遅かった。悠太朗の場合は家の事情があった。母の方は結婚自体は遅くはなかったが、一人目の子供を事故で亡くした。紗江の十歳年上の姉である。もう子供を産むことを考えていなかった母が紗江を産んだのは悠太朗の結婚と甥の誕生の影響が大きかった。長いこと遠ざけてきた赤ちゃんを腕に抱いたとき、母は涙が止まらなかったという。

 広川のおばあちゃんは話しながらも魚をさばく手を休めることはなかった。目にも止まらぬ速さでメバルの腹をとっていく。

「戦時中じゃったし、嫁さんを返すのも忍びなかったんじゃろ。ここだけの話、武朗さんには本家さんも手を焼いとったで。嫁さん返したら、あの女もらういうんは目に見えとったけえな」

「あの女っていうのは宮田さん?」

「ああ、あれよ。元は港の芸者よ。武朗さんめがえらい入れ上げとったけど、どうしてあがいな女にのう。嫁さんも情けない思いをしとったで。子はできん。亭主は帰ってこん。亭主の浮気相手はどこの馬の骨ともしれん女。あの嫁さんもええとこの出じゃけえね。あの頃は井戸端で泣いとるんをよう見かけたわ」

「じゃあ、おじいちゃんはおばあちゃんと結婚してすぐ宮田さんとこに行っちゃったんですか」

「元々あれはそういう男よ。それでも一緒になって一、二年は我慢しとったかの。でも終戦間際になってまた悪い癖が出てしもうて」

「悪い癖?」

「若いもんは知っとるんかの。本家さんは戦争の頃は、瀬戸内海の海運で稼いだ。東京、大阪からの物資を宇品や呉に運んだり、反対に九州、四国から集めた荷物を大阪に運んだり。あの頃はほんまに羽振りがよかった。海軍の仕事も多かった。戦時中からは造船も手掛けとったし、役場や商工会に頼まれて配給なんかの集積所に自分とこの蔵を貸したりもしていた。戦後の混乱期には物資の横流しでだいぶ稼いどった。本家さん、あんたにとってはひいばあちゃんじゃ、えろうてのう。ピカのせいで県の役場は壊滅じゃろ。誰も管理するもんがいなくなった物資を闇で売りさばいたんじゃ。武朗さんは母親のやり方に反発しておったな。まあ、無理もないわな。武朗さんは中学校も本土に通っておったくらいで、ピカでずいぶん知り合いを亡くしたらしいけえの。島におったら、いわば対岸の火事じゃて、わしらにとってはその秋の大雨の方が、船が流されたり山が崩れたりで大事じゃったが。武朗さんにとっては島のそういうのがまた癇に障ったんじゃろ。戦争が終わったとたん、島を出て街に行ってしもうた。嫁さん残して、愛人を連れて行った。で、何をしておったかというと、母親に負けじと自分ところの商売道具を闇に流したんじゃ。これがどういうことか分かるか。元々本家さんは蔵を貸しとるだけだったんで。あの頃は藁でも材木でも組合がついとってなあ。本家さんはそれぞれの組合にもうけが行くように値をつけて闇に流しとったが、武朗さんはそれをきろうた。罹災して困っている、冬が間近に迫っとるのに家もないちゅう人が大勢いる。それなのに価格をつりあげて闇に流しよる。しかもそれらは本来、国がいうた値をつけて売るもんじゃ。価格をつりあげるから罹災民に行き渡らんいうて。若かったんじゃろうな。武朗さんめがもうけが出ん値で闇に流してもんじゃけえ、本家さんは怒った組合につきあげられて、えらい情けない思いをしたようじゃよ。親の気も知らんと、武朗さんは畳屋の会社作って簡易畳、要は畳表を始末しただけのもんじゃがの、それを安う売っておったんじゃが、とうとう警察やら税務署に目を付けられてな。割り当てられた畳表を闇で売って不当な利益を得ているという嫌疑で、取り調べを受けよった。ひと月も家に戻られんかったいうから相当ひどい目におうたんじゃろう。全くの濡れ衣という話じゃったが、そんな話、誰が信じようにゃあ。商売人は皆、闇でもうけていた時代じゃけえな。そうせんと食うていけんかったし」

「皆やっていたのに、どうしておじいちゃんだけが警察に?」

「告発者が内部におったいうてたで。その社員は組合の藁差し金だったんじゃろ。武朗さんのやり方は藁組合にとってはえらい迷惑じゃったはずだから」

「そんなこというても、おじいちゃん、何にも悪いことはしとらんのに」

「そんだけ、誰もが生きていくのに必死じゃったということよ。組合の連中じゃって、男はほとんど戦地帰りよ。帰ってくりゃあ、家は焼けて財産も何ものうなって。家族が生きてりゃあ、よしとせにゃちゅう有様だったんじゃけえ。それだってあのピカがあったけえ、妻や子亡くしたもんがよけいおったわ。闇でもやらんにゃあ、食っていくことができんかった。ずるをせんと死ぬだけじゃったんだで。そんなとき、一人ずるをせんという人間がいちゃあ困るんよ」

 広川のおばあちゃんは言いながら、顔のしわを深くした。怒っているようだった。

「それに、武朗さんは心臓が弱いいうて、一度も兵隊にとられとらんけえ、反感かうのも仕方ない」

 おじいちゃんが心臓を……本当だろうか。そんな話は聞いたことがない。

 紗江は自分が疑われているかのような居心地の悪さを覚えて、話の矛先を変えた。

「おばあちゃんはどうしていたのですか」

「嫁さんはかわいそうに、島においていかれたんじゃ。子がおらんかったせいで、亭主を責めることもできんかった。武朗さんはあの女と暮らしとったよ。嫁さんは島で舅姑の面倒をみながら、よう街に様子を見に行っとった。それが、武朗さんが警察に連れて行かれたり、新聞にひどう書き立てられたりしているうちに、あの女は街におられんようになったんじゃろ。島に帰ってきおってな。入れ替わるように嫁さんが、亭主を警察から返してもらうまでは島に帰らんいうて、街に出たんじゃ。悠太朗さんが生まれた直後じゃったよ。まだ首も座っていない悠太朗さんを抱いてなあ、船に乗った姿は今でも覚えとる。寒い日でな、ありったけの着物を重ねて、船に乗り込んだ。あんときはさすが本家の嫁さんじゃと思うたな。中には、実の母親に親心をつけんがため、街に出たんじゃろいう者もおったが。ほんじゃが、島に戻ったときには、借金も会社も全部始末つけて、亭主を連れて帰ってきた。あのお人があそこまで肝が据わっとるとは、誰も考えておらなんだな。まあ、実のところ、実家に泣きついて助けてもろうたちゅう話のようじゃったがな。でも、あれが良かったんかもしれんな。いくら腹を痛めた我が子がじゃいうても二ヶ月三ヶ月離れりゃあ、親も諦めがつく。本家さんはそれを狙っておったんかもしれん。事件の後、さすがの武朗さんもしゅんとしとったが、しばらくしたらまたあの女の家に入り浸るようになったよ。だらしのない男よ、まったく。男は年をとっても性根が変わらん。それに比べ女はどこに嫁いでも、その家を盛り立てるために尽くす」

 広川のおばちゃんは鼻息を荒くした。

「わしじゃって、ここにきたときは苦労したもんよ」

 紗江はげげっと思って慌てて腰を浮かそうとしたが遅かった。長居をしすぎた。この話が始まったら二時間コース、寺の鐘が鳴るまで帰れない。

「うちのばあさんが、まあ、働かん人での。家のためには全く役に立たんお人じゃったわ。外にも出んのに毎日、紅塗ってなあ。鏡台の前で日がな一日白髪を抜いとった」

 広川のおばちゃんは手ぬぐいで目を拭った。

「結納が少なかったんじゃ。あとで母ちゃんにきいたら、五人姉妹の中でわしが一番少なかった。それを聞いたときの情けなさいうたら、今でも涙が出る」

「ご苦労されたんですね」

「こんな貧乏に嫁いだけえの。わしが嫁にきたときなんか、畑も皆売り払うてしもうとった。仏壇にまで赤札がつけられてな。死んだじいさんが騙されて借金を肩代わりさせられて。この家は人だけはええからの。商売道具の船まで売ってしもうてから。そんなのに、うちのばあさんはやれ紅をこうてこい、やれ卵を食いたいいうて、父ちゃんを走らせる。あれじゃあ、家をつぶすよの。わしゃあ、腹が立って腹が立って、涙が止まらんかったわい。家建てて、畑取り戻すんまで、わしがどれだけ苦労したか」

 広川のおじちゃんがひょこひょこと庭から顔をだした。涙目の妻を見て状況を瞬時に把握したのだろう。おじちゃんは逃げの態勢に入ったが、紗江にそれを見送る義理はなかった。これ幸いと腰を上げて、おじちゃんに席をお譲りする。紗江が座っていた場所に座らされたおじちゃんは、結納から始まる結婚生活七十年分の繰り言を聞くことになった。広川のおばちゃんのことがあるから、島の男たちは親に「結納金だけはけちらないでくれ」と頼む。八十九十になってまで結納金の額で愚痴を言われるのがよっぽど嫌なのだろう。

 広川のおばちゃんは口を動かす間も手は止めない。しごをしたメバルを流水で洗うと、スーパーの袋に入れて「ほれ」と紗江によこした。

「お父ちゃんの晩御飯にし」

「こんなにいただいてええんですか」

「この前、おたくのおばあちゃんからええもんをいただいたけえの」

 袋を片手に、もう一度振り返ると、おばちゃんとおじちゃんはまだ向き合って井戸端に座り込んでいた。おばちゃんはしごをしながら、おじちゃんに妹たちの結納金の額を言って聞かせている。おじちゃんはふむふむと神妙な顔つきで仰せごもっともと頷いていた。

 おばちゃんの手に目が留まった。

 あれが仕事をする手だ。苦労に苦労を重ねてきた手だ。

 紗江は自分の薄い掌を見下ろした。六十年後、この手もおばちゃんみたいになっているのだろうか。

 結婚も出産も紗江にはまだリアリティがない。この手を使って掴みとっていく未来が自分にも来るのだろうか。

 台所で母親が水仕事をしていた。母親もまた広川のおばちゃんと同じ手をしていた。

 

 香のふくれっつらを見ると、紗江は思わず頬が緩んだ。紗江の笑顔に気づいた香は、ねぎを刻む手を止めた。