実が落ちる前に

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現在④-5 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 悠太朗と洋子の間で何があったのか。なぜ、悠太朗は洋子を殺さなければならなかったのか。

 それを紗江に教えてくれたのは、かつての同級生であり恋人だった。

 児玉翔平。

 高校時代、紗江は翔平と付き合っていた。高校は別々だったが、毎朝同じフェリーで通学していた。翔平は島の男としては珍しく、おとなしくて温厚な性格だった。小中と目立たない存在だったが、高校受験で紗江は彼を見直した。彼は県内有数の進学校に合格したのだ。紗江も志望校に合格したから、学力の点で彼に感心したわけではない。小中の九年間、秀才ぶりを全く見せつけなかった彼の処世術に感嘆したのだ。紗江も目立たない生徒だったが、目立たないなりに教師にほめてもらいたいと一生懸命だった。しかし、彼には全くそんなところがなかった。周りにほめられたり騒がれたりするのが嫌だったのか、教師にほめられることに何の価値も見出していなかったのか、彼の気持ちはよく分からないが、彼が同級生や先輩からいじられているときも、決して自分の頭のよさをひけらかしたり、鼻にかけなかったのは確かだ。周りの評価を気にしすぎる紗江の目に、そんな彼の生き方はとても格好良く見えた。

 付き合っているとはいえ、狭い島のこと。手をつなぐのはおろか、挨拶をしただけで、噂に尾ひれはひれがつく。紗江らは島内では手をつないだりしなかった。朝は本土側のフェリー乗り場からバスに乗ったとき、初めて目を合わせる。帰りは待ち合わせをして二人で本屋に寄り、フェリー乗り場の手前で別れてから、素知らぬ顔で同じフェリーに乗った。翔平が一本遅い便に乗ることもあった。そうやって二人で大切に守ってきた関係なのに、大学受験でぎくしゃくとし、結局、互いの進路が決まる前に別れた。

 今となってはあまり会いたくない相手だったが、紗江には他に頼める相手がいない。

「おお、紗江か。久しぶりだな」

 翔平は無邪気な笑顔で手を振ってきた。来い来いと手招きをしてくる。

「ここ、座れや」

 言いながら、クーラーボックスの蓋を手ぬぐいで拭いてくれた。

 紗江はすすめられるままに堤防に登り、クーラーボックスに腰を下ろした。座った後にじわじわと後悔が膨らむ。彼の中の紗江は今でも高校生の頃のままだろう。優等生でがんばり屋だった頃の自分だ。この年になっても仕事に就かず家にいることは耳に入っているだろうが、まさか紗江が引きこもりで単位が取れず退学したなんて、彼は思いもしないはず。紗江もできれば知られたくなかった。

 紗江とは対照的に翔平は十年前と変わらない。屈託のない笑顔を背に向けてくる。

「いつ以来かな。俺が紗江にフラれた日が最後か」

 翔平は垂れた釣り糸を左右に小さく揺らしながら言った。

「紗江、俺のこと避けていただろ」

「別に、そういうわけじゃないけど」

「なんだ、違うのか。ある日突然、何の前触れも理由もなく一方的に俺をフッたことを気にしているのかと思っていたんだ。紗江はうじうじと悩むタイプだからさ。もしそうだったら悩ませておくのも悪いし、一言言っておかなきゃと思っていたけど、違うんならいいや。悩んで損したのは俺の方だったか」

 翔平は言葉とは裏腹の屈託のない笑い声を上げた。

 フッたのも、逃げていたのもこっちの都合なのに。

 紗江は彼の笑い声につられたふりをして、ぎこちなく笑った。

「俺、このまま島にいることに決めた」

「えっ?」

 思わず顔を上げる。

 彼の夢は建築家だった。その夢のために島を出て、建築科のある大学に進学した。大学院に進んだという話も風の頼りに聞いた。そのときは彼は順調なのだなとほっとすると同時に、うらやましくもあった。

 彼が島に戻ってきたのは半年ほど前だっただろうか。「翔平君が帰ってきてるんじゃと」と母親が紗江に教えてくれた。「同窓会でもしたらええのに」と母親が言うのを上の空で聞きながら、紗江は彼の身に何があったのだろうと想像していた。だが、正解を確かめに行く気にはなれず、一度この場所で彼が釣りをしているのを遠目に見てからは、ここに足を向けなくなっていた。

「役場に就職が決まった。だから、もう一生島暮らしだな、俺は」

「そっか……そうなんだ」

「どうしてって訊かないのか? あんなに島から出たがっていたくせにって」

 紗江は何か口にする代わりに、唇を噛んだ。

「興味ない……か」

 彼の釣り竿が大きく揺れた。釣り上げてみるとチヌだった。紗江が腰を上げると、彼は「それ、壊れているんだ。蓋、留め具がはずれてんの」と言って、脇にあるバケツにチヌを入れた。

「ここで釣っているとさ、いろんな連中が寄ってくるからさ。椅子用に置いてんだ」

 翔平は再び釣り糸を海に放った。

 話をどう切り出そうか、一方的な頼み事なだけに紗江はタイミングをうかがっていた。

「あのね、頼みたいことがあるんだけど」

 すると翔平は目を顔を紗江に向けて、目を見開いた。

「俺に?」

 紗江はうなずいてから、香から頼まれたことを翔平に伝えた。

 紗江の話が進むにつれ、大きく見開いていた翔平の目が細くなる。そして、最後には元の気の抜けた笑顔に戻った。

「そういうことかあ」

「そういうことって?」

「紗江が俺に会いに来ただけでもびっくりなのに、さらに頼み事があるなんてどういう風の吹き回しかと思ったけど、なんだ、あの人のためだったんだな。納得、納得」

「それ、どういう」

「だって紗江、あの人のこと好きだったじゃん。初恋の相手だろ」

 紗江はクーラーボックスから転げ落ちそうになったが、なんとか踏ん張る。何を言いだすのだ、この男は。だが、翔平は紗江の気も知らず、いや、動揺した紗江を目でからかいながら、

「うちのおふくろも騒いでいたよ。おふくろ、面食いなんだ。そのくせおやじと結婚するんだから、女ってわけわかんないよ。しかも、大恋愛の末。おふくろのやつ、財産目当てだったのかな」

 翔平は自分の膝をお椀のように撫でながら、笑いをかみ殺している。おかしそうに目を細める彼の表情には、高校生の……いやもっと昔の面影があった。

「さっちゃんの兄貴だもんな。美人で当たり前だよなあ。でも男で美人でもなあ、女みたいに楽には生きられないよなあ。あの人も色々苦労したみたいだし」

 翔平の口吻に紗江は首を傾げた。まるで、島を出てからの香のことを知っているような口ぶりだったからだ。少なくとも、香はこの島で暮らしていた頃は苦労知らずだった。そして、心中事件は「苦労」と言うには度が過ぎている。

 だが、翔平は紗江の引っかかりには気づかず、しみじみとした口調で続ける。

「家族をいっぺんに失ってさ、じいさんと二人残された。こう言っちゃなんだけど、今回のことであの人もほっとしているんじゃないの」

「今回のこと?」

 一体どれのことだ。

「じいさんが死んでくれたこと。寝たきりを介護していたんだろ。あと十年生きられたさ、それこそ悲惨だよな」

 紗江はさすがに頷くことはできなかったが、心の中では彼の言う通りだと思った。

「俺さ、大学同じだったんだ、あの人と」

 紗江は翔平の横顔を見つめた。

「学科も一緒でさ、といっても、顔を合わせたことはないよ。一つ上の先輩から聞いただけ。大学、二年で辞めたんだって」

 紗江はえっと思った。そんな話、聞いていない。

「大学入学してすぐ、じいさんの介護が始まって、最初はがんばっていたんだけど結局続けられなくなったみたい。どっちか選べと言われたらさ、寝たきりのじいさんを見捨てるわけにはいかないじゃん」

「でも、おじいちゃんは介護施設に入っていたはず」

「そこで、もう面倒見られないって言われたんだろ。病院じゃないから。で、預け先を探したけど結局見つからなかったって。ああいうのって、どこもいっぱいで、申し込んでも五年も十年も先じゃなきゃ空かないんだと」

「そうだったんだ。私、ちっとも知らなかった」

 紗江は呆然と呟いた。

「翔平はさ、あの事件のことをちゃんと覚えている?」

「当時ってこと? うーん、後で色々聞いたからどこまでが自分の記憶かは分かんないな」

「小学生だったものね、私たち。大人もちゃんと教えてくれなかったし」

「そうそう。最近になって、ああ、そういうことだったんだということもあるしな」

 紗江は「そろそろ帰らなきゃ」と言って、腰を上げた。

「明日、十時でいいか」

「うん、ありがとう」

「これ、持って帰れよ」

「一匹しか釣っていないくせに、翔平んとこのがなくなるじゃん。腕、落ちたんじゃないの」

「馬鹿言うな」

 翔平が何かを投げる仕草をした。紗江はその何かをかわす。

「なあ、紗江」

 翔平は釣竿を置いて立ち上がった。

「あの人のこと、また好きになってしもうたんか」

 紗江は言葉に詰まる。

「隠さくていいって」

 翔平は屈託なく笑う。

「初恋の相手だろ。それがえらい男前になって帰ってきたんだ。好きにならん方がおかしいわ」

 

 初恋の相手……か。

 紗江は翔平に背中を向けて、歩きつつ、反芻する。

 久しく忘れていた記憶だった。今思えば、沙紀のものを欲しがっていただけの、子供じみた恋だった。本当に香が好きだったのかどうだか……

 では今の自分はどうなのだろう。彼に好意を持っているのだろうか。

 紗江にとってそれは難問だった。そもそも恋愛ってどんなものだったか、まずはそこから始めなければならないほど、それは紗江の埒外にあるものなのだ。十七年ぶりに会ったいとこが恋愛の対象になりうるのだということ自体、最近まで気付かなかっ……

 紗江は足を止めた。体を百八十度回転させる。

 引き返してきた紗江に翔平は「どうしたの?」と首を傾げる。その太平楽な顔に紗江は今さっき浮かんだ疑問をぶつけた。

「さっき、最近になって分かったこともあるって言ったよね。あれってどういう意味なん?」

 翔平は「そんなこと、言ったっけなあ」と後頭部を掻いた後、

「大したことじゃないんだよ。俺が知らなかっただけで、皆はとっくの昔に。この前、本家さんが帰った後、いや葬式の後だったかなあ、おふくろと近所のおばはんがしゃべっているのを聞いて、ああ、そういうことだったのか、と。俺、今まで横領のことを知らなかったんだ」

 間抜けだろと同意を求めるように翔平は小首を傾げるが、紗江だってそんな話、聞いたことがない。

「あの、横領って何の話?」

 今度は翔平がぽかんと口を開けた。

「紗江、もしかして知らんのか」

 紗江は翔平の顔をまっすぐ見て、頷く。

「うわ、やべえ」

 翔平は掌で口をおさえた。

「ちょっと、何なの」

「いや、俺、余計なことを言っちゃったかも、と」

 つまり、自分には隠していたということか。島中の人間が、紗江の耳には入らないようにしていた。

「そんな顔、すんなって。紗江にだけ隠していたわけじゃないと思うし。紗江には面と向かって話題にすることはできないし、お前の家族にとってはタブーなんだろ。今までお前が知らなかったということは。だから、たまたまお前の耳に入らなかったというだけの話だ」

「教えてよ」

 翔平は気まずそうに頭を掻いていたが、もう一度尋ねると仕方ないなあというようにため息をついた。

「亡くなった悠太朗さん、金に困って紗江んとこの会社からお金を持ち出していたらしい。事件の後、紗江のばあさんがもみ消したんだと。警察にも言わなかったって。心中の上にその理由が金じゃあな。ばあさん、情けなかったと思うぞ。もみ消したんは親心だろ」