実が落ちる前に

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過去④ 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 香はくわえ煙草で一人分の夕食の食器を洗う。食器といっても、数はない。鍋は中のお湯を捨てるだけ、洗剤が必要なのは皿一枚とスプーン一本とガラスのコップ。少し前までは、「飯ぐらいは」と炊飯器を使っていたが、最近ではそれも面倒くさい。かといって真空パックの飯を温めるのも面倒だから、最近はもっぱら食パンだ。トーストしない食パンをもそもそと、それを一日二回、だから一袋で三日もつ。

 布巾で濡れた手を拭く。洗った食器はそのまま洗い籠の中、どうせ明日も同じメニューで同じ皿を使うのだ、わざわざ拭いて食器棚におさめることもない。

 さてコーヒーでも飲んで一服しようとしたとき、玄関から物音が聞こえてきた。

 廊下に出る。玄関のすりガラスの向こうに人影、彼女は鍵のかかった引き戸を力ずくで開けるつもりなのか。

(俺、何かやったっけ?)

 彼女らしくない苛立ちを目の当たりにして、鍵を開けるのを一瞬躊躇するが、彼女の目にもすりガラスごしに自分が見えている。

 香は鍵を開けて玄関の引き戸に手をかけようとした。しかし、その前に引き戸はすごい勢いで開けられた。

 目の前に恵理。どんな顔で立っているのかと思ったが、恵理は下を向いていたから、顔は見えなかった。

 そのまま、恵理はそこに香がいることなどおかまいなしに前進、玄関に上がると、後ろ手で勢いよく戸を閉めた。がちゃんと大きな音、その後、鍵がかちりとかかった。

「香でしょ」

「えっ?」

「これ、全部香の仕業でしょ」

 そう言うやいなや、恵理は肩にかけたバッグに手を突っ込んだ。

 次の瞬間、十数枚、いや、数十枚の紙が香の目の前に舞い上がった。足元に落ちた一枚を拾おうとした香の鼻先に恵理は最後の一枚をつきつけた。香は床に伸ばしかけた手を引っ込めて、目の前の紙に目の焦点を合わせる。

 A4の用紙いっぱいに書いてあったのは見覚えのある……「二股淫乱女」の五文字だった。

「これ、この前のじゃん」

 いつか、恵理のアパートのドアに貼り付けてあったのと同じだ。

「やっぱりそうだったんだ。あのときのも香の仕業だったんだ」

「はっ?」

 戸惑う香の胸倉を恵理が掴んだ。恵理の手から落ちた紙はふわりと舞い、肩のバッグは大きな音を立てて足元に落ちた。

「しらばっくれないでよ。私の職場に送ったでしょ。ファックスで何十枚も。どうしてこんな陰険なことをするのよ」

 恵理は言いながら、香の胸に拳を叩く。香が両手で恵理を引きはがそうとすると、そうはさせじと、今度は香の衣服を両手で掴んだ。

「俺じゃないって」

「私がおじいちゃんのお世話をするのがそんなに嫌だったの」

「俺じゃないって言っているだろ」

「香しか知らないじゃん」

 恵理の金切り声、地団太を踏む音。

 香を見上げる恵理は、髪を振り乱し目を真っ赤に充血させ、まるで鬼の形相だ。

「彼の家にも送ったでしょ」

 香は恵理の両手を引きはがす。恵理がむしゃぶりついてくる。香の理性がふっとんだ。

 香は恵理の頬を叩いた。その瞬間恵理の両手から力が抜けた。肩を軽く突いただけで、恵理は玄関に尻餅をついた。ぽかんとした顔で自分を見上げる恵理の、無防備な腹に足を……

 恵理は芋虫のようにごろりと転がった。腹をおさえる恵理の手の上から、香はもう一度蹴った。

 恵理はせき込み、胃液を吐く。その音も、臭いも全てが香の神経を逆なでる。

 香は玄関に膝をついた。恵理の右腕を力任せに引っ張る。

 恵理と目が合う。大粒の涙が浮かんだ目が香に何かを訴えている。

 香は足元の紙を二、三枚鷲掴みにすると、吐しゃ物に汚れた恵理の口元にぐっと押し付けた。顔を振って痛がる恵理、その後頭部に手を回し、香は力まかせにごしごしと恵理の口元を、顔をこする。

 吐しゃ物を拭うための紙だったのに、恵理の顔から離し見てみると、血がついていた。驚いて恵理の顔を見る。

 手のひらで覆い隠した口元、手の影から血が滴り、顎の先から玄関に落ちる。 

 香は立ち上がった。そして逃げた。逃げた先は…… 

 後ろ手でドアを閉めると、両脚から力が抜けた。フローリングの床に尻を打つ。

 ドア一枚隔てた向こうから恵理の嗚咽が聞こえてくる。香はしばらく両手で耳を塞ぎ嵐の過ぎ去るのを待ったが、もう耐えられない。床に手をつき、這うようにして病人の寝るベッドに近づいた。

 ベッドの上の武朗の手に額をのせる。体温、湿った皮膚の感触、呼吸の音……恵理の嗚咽をかき消してくれるもの。

 恵理の嗚咽が幻聴になったのはいつだったのか。

 気づくと朝になっていて、香のどんより重いまぶたにも朝日がさし込む。

 ひどく喉がかわいて、香は這うように台所に行った。

 

 シンクに背をつけたまま、四肢をのばす。

 夕方の長い日差しが香の足元まで射し込む。いつの間に時間は過ぎたのだろう。ここと武朗の部屋と、何往復かしただけの一日が終わろうとしている。

 無気力な体と無気力な頭、体内のエネルギーを四肢の先から垂れ流しているような気がした。色々垂れ流した結果がこのざまなのか。気付くと朝で、覚めると夜になる。生きているんだか死んでいるんだか、自分も武朗も、どちらもそう変わらないような気がした。

 もう何も見たくない。香はまぶたを閉じ、その上から両手でふたをする。

 何も見えない視界、その真ん中でチロチロと瞬く赤い光……炎は少しずつ大きくなる。香の鼻先を、前髪を、喉の奥を焦がしながら、一気に燃え上がる。

 香は咳こんだ。喉によみがえった熱風が肺に入り込む前に、香は胸を叩いて吐き出した。

 視界は涙でかすんでいた。

 煙草に手を伸ばす。

 今度は暗い部屋に一点、煙草の赤い火、これは現実だろうか夢だろうか。香はぼんやりと煙草の先の小さな火を見つめた。

 自分の寿命もこんな風に目に見えてわかったらもっと楽に生きていけそうな気がした。少なくとも明日死ぬと分かったら、こんな家も死にかけのジジイも置いて、ここから飛び出すはず。

 飛び出してどこへ行くのだ。どこへ……目の前が真っ暗になる。どこへ行くんだ、俺……。

 火をつけた煙草が短くなって消えていく。香は自分の命が燃えつきていく様をそこに見たのだ。燃え上がることなく、どこに引火することもなく、ただ煙になって消えていくだけ。灰は風に飛ばされて、どこぞに消えていくのだろう。

 香は上半身を折り、そのままごろんと床に横たわった。体をくの字に曲げ、耳と頬をかたい床につける。

 床から耳に振動が伝わる。冷蔵庫の稼働音か、遠くで武朗が自分を呼んでいるのか。それとも恵理の……

 香はふと懐かしい感覚を思い出した。

 波だ、海の……島の、父親が操る船の……香の腰をつかむ妹の手がうっとうしくて、香は何度も彼女の手を振りほどこうとした。

(かわいそうなことをした、もっと優しくしてやるべきだった。今度島に帰ったら、ちゃんとお兄ちゃんらしく……)

 香はうつらうつら、そんなことを考えながら、今度は安らかな気持ちでまぶたを閉じた。

 

「あんたも島に帰りたいんだろ?」

 香はベッドの脇に立ち、武朗に問いかける。

「こんなところで死にたくないよな」

 縁もゆかりもない土地で……しかも他人のボロ一軒家の一室で……県会議員を務めた自分が、島の代表だった自分が……血縁者にもみとられることなく死ぬなんて……水城武朗ともあろう者が……香は頭の中で武朗の代弁をする。

「考えもしなかったよな、あの頃のあんたは」

 香は突然、悲しい気持ちに襲われた。自分の気持ちの動きに驚く。同情しているのか、この男に? 俺が? いや、違う。香はおのれの境遇を嘆いているだけ、決して武朗に同情しているわけではない。

「俺も帰りたくなったよ」

 ほら、その証拠に、一言吐き出すごとに胸につっかえていたものが消えていく。

「島に……家に帰りたいね」

 鑑定書のことが頭を過る。島に帰れば、あれと向きあわずにはいられない。向きあえば、香は最後の拠り所を失う。もう二度と手に入れられない、二度と島に帰ることはできない。こうやって懐かしんだり帰ることを夢想することさえできなくなる。そのときこそ、本当の孤独だ。だから、

「だから、帰れないね」

 香はベッドに背を向けて床に腰を下ろした。あぐらの足首を両手でさすりながら、たった今思いついたことを口にした。

「あんたがいるうちは」

 口にした後、今度は激しい自己嫌悪に襲われた。

(また、おじいちゃんを言い訳に使って)

 足首を掴む自分の手……枷は背中ではない、この手だ。