実が落ちる前に

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挿入 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 洋子は軽く背中を揺すり、息子を背中のすわりのよい位置に直した。名前を呼んでみるが、返ってきたのは寝息だけだった。

 ここ半年で悠太朗は見違えるほど子供らしくなった。ついこの前まで赤ん坊だったのが嘘のようだ。一歳にならないうちに高熱が半月も続いたときはもうだめかと思ったが、今では同じ年頃の子供よりもよく食べてくれる。悠太朗がすくすくと成長してくれることだけが、この島で暮らしている洋子の唯一の幸福だった。

 洋子の脳裏に二年前のことが蘇る。

 夫が警察に捕まった後、夫が起こした不祥事の処理をしつつ、生まれたばかりの悠太朗を育てるのは難儀だったが、あの頃は親子水入らず楽しく暮らせた。あんな暮らしはもうできないだろう。だから、あのときは島に帰るのがとても辛かった。この島での洋子の暮らしはまるで針のむしろ、いっときも心の休まるときはない。

 悠太朗はさっきまでぐずっていたのに、洋子が綿入れの中に入れて背負ってやると安心したのか、ころりと眠ってしまった。家の雰囲気がいつもと違うことに悠太朗も気付いていたのだろう。普段は洋子が深夜まで働いていてもぐずることのない子だから。

 早朝のまだ日が昇ったばかりの時間だ。

 一晩中、気を張っていたせいか、朝の陽射しに目がちかちかする。ここで座り込んだら最後、二度と立ち上がれなくなりそうだ。それが分かっているから、洋子は用もないのに土間をうろうろと動き回る。

 この十ヶ月あまり、とにかく気を遣うことばかりだった。

 一晩中、湯を絶やさないように言いつけられていた。毎日の生活で必要な分の薪はいつでも積んでいるが、昨日は予定外のことだから、洋子は昼過ぎから薪割りにかかりきりだった。

 薪を割って、水を汲んで、夜中には医者を呼びに島中を駆け回った。臨終に立ち会っていた医者を連れて帰ると、夫が帰っていた。夫は洋子の顔を見ると、また家を出て行った。

 湯漬けを盆に載せて立ち尽くす自分。朝になれば、妹が心配で顔を見に帰ってきた夫を追い出した嫁になっている。もう分かり切っていることだ。

 夫が去った後も洋子は働き続けた。医者や看護婦の「あれを持ってこい、これを取ってこい」の指図に右往左往し、姑には「のろま」と怒られた。舅はぐずる悠太朗にさじを投げ、洋子の背中にくくりつけた。悠太朗を背負うことは全く苦ではなかったが、子を背負って立ち回る洋子を見る看護婦たちの白い目には居たたまれない気持ちになった。

 よくここまで耐えてきたものよと思う。正気ではとても無理だっただろう。

 不意に背中の悠太朗が重く感じた。

 悠太朗ももう二つだ。もう洋子の背中にはおさまりきらなくなっている。綿入れの中に手を入れ青い毛糸の靴下の上から撫でてやる。この冬はしもやけができて、指がえびのようになってしまった。洋子は上からもう一枚重ねてやりたかったが、土間から離れるわけにはいかず、仕方なく竈の前で足をさすってやる。

 悠太朗はええ子ええ子と呟いていると、この晩に起きたことを、嫌なものから一つずつ忘れることができる。

 火掻きで竈の中をつっつき、薪を投げ入れる。

 そのときだった。家の空気が変わった。待ちに待ったときがついに来たのだ。

 悠太朗とは違う赤ん坊の泣き声に洋子は屈めていた背中をぴんと伸ばした。

 慌てて、板の間に上がった。その拍子に綿入れが落ちた。洋子はかまわず廊下の奥に進んだ。

 襖の向こう側で生まれたばかりの赤ん坊が泣いている。

 洋子は安堵でその場に膝をついた。

 無事に生まれてきてくれたか。男か女か、男ならいうことはないのだが。

 だが安心したのもつかの間、異変はすぐに起こった。

 洋子には何が起きているのか、とっさには分からなかった。

 まず家中に赤ん坊ではない泣き声が響いた。梁の一本一本を震わせるような叫び声だった。

 ただごとではない。何事かが起きたのだ。

 洋子は廊下に一人きりだった。変事が起きたのは確かなのに、誰も部屋から出てこない。洋子に知らせようという者は誰もいない。

 立ち竦んだままでいると、いきなり目の前の襖が開いた。開いた襖から義妹が飛び出してきた。胸元がはだけ、寝巻きの裾は血で汚れている。義妹の腰には姑がしがみついていた。

「千江、千江」

「返せ、わしの子を返せや」

 義妹は洋子から悠太朗を奪おうと、両手を伸ばす。その手が洋子の脇を掠り、悠太朗の足を握った。

「おお、おお、悠太朗。母ちゃんのとこに来いや」

洋子は悠太朗から義妹の手を振り払おうと必死になった。

「これはわしの子じゃ」

「千江、やめんさい」

 看護婦が義妹を羽交い絞めにした。それでも義妹は暴れた。両手両足を振り回し泣き叫んだ。看護婦と医者の二人がかりで義妹は布団に寝かされ、最後に医者の手で鎮静剤を打たれた。

 義妹は目を開けたままじっと洋子を……いや、悠太朗を見つめていた。姑が襖を閉めると、義妹の最後の咆哮が家を揺らした。

 洋子はサンダルをひっかけ、勝手口から出た。

 道なりに歩いているうちに、早朝から昼間の陽射しに変わった。いつのまにか、山道に入っていた。柑橘の香りが鼻孔に入る。

 視界が開けた。眼下に瀬戸内海が広がっている。

 瀬戸内海は今日も穏やかだ。島の上で何が起ころうと、海は波一つ立てない。

 しばらく見とれていると、遠くから話し声が聞こえてきた。洋子は思わず木の陰に身を隠した。

「千江ちゃん、死産じゃと。かわいそうになあ」

 手拭いを頭に巻いた老女二人が、洋子が歩いてきたばかりの道を登ってくる。背中にはかごを担いでいる。

「ああ、だめだったんか。この前の子は流れたんじゃろ。どうしたもんかねえ。本家さんに出したのが最後の子じゃったんじゃろうか」

「こうなったらあれじゃの。一人産んでくれとってよかったっちゅう話よ。跡取りになった。本家さんも安堵しとるじゃろ」

「じゃが、手許にも子が欲しいよのう、男の子が。千江ちゃんが本家の子を見るときの目、見たか。わしゃあ、胸が詰まるよ」

「本当に。産まれてすぐだったもんの。千江ちゃんからとりあげたの」

「まあ、でもええ話ではあるよの。いずれ本家を継ぐんじゃし。近くにいてくれるしなあ。大きくなれば、子も母ちゃんが分かる」

「そりゃあ、そうよ。本家にいりゃあ、苦労はせんし。それにしても本家さんはあがいな嫁をもらってしもうて」

「家柄はよかったらしいが、産まん嫁もろうてものう」

「でもうまずめでよかったかもしれんで。ほれ、あの嫁、ぴかにおうとるじゃろ。できても、かたわじゃ。千江ちゃんの子の方がええよ」

 洋子は奥歯を噛みしめた。

 ぴかにあったのは姑に言われて、親戚を探しに行ったからだ。ぴかが落ちた翌日、洋子は入市被曝した。姑が「はよ行け」「すぐ行け」とせき立てて洋子を船に乗せたのだ。それなのに、後になって傷ものになったと言って白い目で見られるなんて。島の中には、生きていればそのうち消息もわかると言って、しばらく様子を見ていた者もいたというのに。

「千江ちゃんも今は辛かろうが、子が本家を継ぐ思えばな」

「それにしても、本家も災難よの。よりによってうまずめじゃったとは」

「本家のボンが浮気をするのも仕方ねえ」

「我が子がおらんもんじゃけえ、あの嫁さん、さぞや居心地が悪かろうよ」

 洋子は耳を塞ぎ、その場にしゃがんだ。目をぎゅっとつぶり、歯を食いしばる。歯の隙間から粗い息が漏れる。

(今にみとれ)

 洋子は歯ぎしりの合間に、婚家を、島の人間を……洋子の苦しみの全てを生みだすこの島を呪った。洋子にとって島は枷だった。

 二人の背中が遠く離れるのを確認してから、

「あんたは私の子じゃけえな。大きくなるんよ」

 洋子は悠太朗の寝顔に呟いた。

「元気に大きくな」

 繰り返しているうちに、少しずつ気持ちも晴れてくる。この島の人間に悪く言われることにももう慣れた。悠太朗の柔らかな頬に触れるうちに、自然に洋子の頬も緩んでくる。

(勝手に言ってろ)

 洋子は姑を、夫を、義妹を、洋子をいじめる親戚ども、そして島の口さがない連中全部を腹の中で笑った。