実が落ちる前に

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過去⑤ 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 田中寿子はきびきびとした動きで、武朗の体温や血圧をはかったり、痰の吸入器の操作をしたり……香はその様子を彼女の後ろからぼんやりと眺めていた。

 寿子が武朗の体を拭き始めても、香はぼんやり眺めるだけ、手伝った方がよいかという考えも浮かんだが、かえって足を引っ張りそうだったからやめた。香には、自分が出しゃばって事態が好転したという経験がない。あるのは、「俺さえいなけりゃなあ」という後悔と居たたまれない気持ちだけだ。

 香は身の置き所に困り、部屋を出た。

 コーヒーのお湯が湧いたところで、寿子に「帰るね」と声をかけられる。コーヒーも間に合わなかった。香はコンロの火を切り、寿子を見送りに玄関まで出てきた。

「もう月が変わるわね。来週は十一月よ。年をとると、時間が経つのが早いから嫌になっちゃう。特にこれから年末にかけてはね、かけ足よ」

「そうですね」

「ということで、次回は来月の第一水曜日よ」

「はい、ありがとうございました」

 田中寿子は目をぱちくりさせて、小首をかしげた。

「今日はえらいおとなしいのね。また、喧嘩?」

 香は曖昧に笑ってごまかす。田中寿子は「しょうがない子ね」とため息まじりに言ってから、さらに顔をしかめた。

「また、煙草の量、増えているでしょ」

「鼻がきくんですね」

「ベッド脇の灰皿」

「ああ……なるほど」

 今度から捨てておこう。

「吸い過ぎよ。まだ若いんだから、いい加減、禁煙しなさい。その年で肺を真っ黒にしてどうするの」

「本当にね」

「他人事にしない」

 たっぷり十分間、香は田中寿子の説教に耳を傾けた。田中寿子の手が玄関の引き戸にかかったのを見て、香は気づかれないようにほっと溜息をつく。

 田中寿子の背中を見る。これでもう二週間、誰と会うこともない。

 玄関の引き戸を閉めて家の中に戻ろうとしたとき、田中寿子とすれ違いこちらに向かってくる男に気付いた。男はすれ違い際、田中寿子の肩にぶつかったが「失敬」の一言もなく、立ち止まることもなかった。田中寿子はむっとした様子で立ち止まり、振り返る。

 香はまるでナイフを振り回しているような不穏な空気をまとった男が、まさか自分に用事があるとは思わなかった。だから、香が閉めようとした引き戸に男の手がかかったときにはびっくりした。香の体はすでに家の中に向かっていて後ろ手に引き戸を閉めたものだから、男がそこに立っていることすら気づかなかったのだ。

 目線はほとんど同じだった。

 男は断りもなく引き戸をがらりと全開にした。そして、いきなり香を殴った。

 香は喧嘩は弱い。殴られるとそのまま床に転げ、尾てい骨をしたたか床にうちつけた。だが、香には「痛い」と思う間もなかった。男に胸倉をつかまれたからだ。

 二発目がこなかったのは、田中寿子が男の振り上げた右腕にしがみついたからだ。

 男は自分の邪魔をするものを振り払おうとしたが、それが中年の女性だと気づくと、顔から怒気を消した。

「やめなさい。何があったか知らんけど、暴力は」

「お前、恵理の腹を蹴ったんだってな」

 ついさっきまで混乱していた香の脳みそも、男のこの一言でやっと落ち着きを取り戻した。こいつか、恵理の恋人は。

 だが、やっと取り戻した香の落ち着きも男の次の一言で、あっさり瓦解した。

「恵理が流産したぞ」

 消し飛んだのは落ち着きだけではなかった。

「俺の子……俺と恵理の子を返せ。この人殺しが」

 言いながら、男は香の胸倉を前後に揺すった。言いたいことを言い終わると、もう一度香を殴った。田中寿子はもう男を止めには入らなかった。

 男の背中が見えなくなると、田中寿子は静かに引き戸を閉めた。

 香は上半身を起こし、あぐらに座り直す。口の中に血の味が広がる。舌先で歯を触る。幸い、歯は折れていなかった。今度は頬に手を当てる。ひんやりとして気持ちがいい。

「さっきの話本当なの?」

「えっ?」

 聞き逃した香に田中寿子は同じことを繰り返した。

 香は「ああ」と言い、「うん」と頷いた。

「そう」

 田中寿子の声は頭の上の方から聞こえてくる。

「だったら、彼が怒るのは無理ないね。こんくらいで済んでよかったわ」

 田中寿子の声には先ほどのような親しみはない。

「ありがとうございます。もう大丈夫なんで」

「そうみたいね」

 田中寿子のいなくなった玄関から香自身が出て行くのにはしばらく時間がかかった。

 

 香は昔から病院に行く機会が多かった。子供の頃はしょっちゅう怪我をしては病院に駆け込んでいたし、両親と妹が殺されたときには、病院で炭と化した三人と対面した。武朗がまだ病院や施設にいた頃はお見舞いに通い、施設から追い出された後は、武朗の薬を受け取りに二週間に一回のペースでこの病院に通っている。院内は旧棟と新棟と西館と東館から成りさらに傾斜地に建っているため、旧棟の一階と新棟の二階が繋がっているという複雑怪奇な迷路のような造りになっていたが、香はほとんど迷わず、恵理の病室にたどり着いた。

 病室のドアは閉まっている。ドアをノックしようとしたとき、病室内から話し声が聞こえてきた。

 話し声……いや、違う。香がよく知っている恵理の嗚咽だった。だが、あの夜とは違い、今は恵理を慰める誰かがいるようだ。

 出直そう。

 香は素早くそう決断し、きびすを返した。エレベータの前に立ち、横目で恵理の病室を見たとき、病室から一人の女性が出てきた。

 女性はこちらに向かっている。

 香はさっと顔を背けた。そして、早足で男子トイレに入った。

 恵理の母親だ。顔は知らないが、きっとそう、年まわりもそうだし、第一、顔がうり二つだ。

 エレベータが一階から最上階までたっぷり三往復するくらいの時間をおいて、香は男子トイレから出た。おそるおそるエレベータホールから廊下の奥まで見渡す。女性の姿はない。香はほっと胸をなでおろした。

 恵理の病室に戻る。ノックをすると、恵理の細い声。香がドアを細く開けると、恵理は「来てくれたんだ」とかすかに笑った。

 香はベッド脇に立った。恵理が「座って」と言うから、ベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。すると、恵理は「ここ」と言って、シーツを手のひらでトントンと叩いた。

 ためらっていると、恵理に手首を掴まれる。そのまま引っ張られ、香は尻餅をつくように、ベッドに腰を下ろした。そして、次の瞬間には香の胸に恵理の頭がおさまっていた。

 恵理は香の背中に爪を立てる。恵理の肩や背中が震えている。香は呆然と恵理の頭を見下ろした。

 泣くだけ泣いた後、恵理は額で香の胸をとんと押して、香から離れた。

 香は病室に入って、初めて恵理の顔をきちんと見た。

 目が赤い、目の下は黒い。頬は真っ青で唇は白かった。

「彼に殴られたの?」

 恵理の声はかすれていた。ずっと泣いていたのだろうと思った。だから、恵理の問いかけに答えるよりも先に言うべきこと、言いたいことがあるはずなのに、香は散々言葉を探した後、結局「うん」と頷いた。

「彼、怒っていた?」

 その問いかけにも「うん」、自分がわをかけて馬鹿になった気がした。

 恵理はそんな香を笑う……いや、恵理は笑っているが一体何がそんなにおかしいのだろう。それとも頭がおかしくなったのか。

 戸惑う香を見て恵理はさらに目尻に浮いた涙を手で拭った。

「彼、関係ないのにね」

「えっ?」

「勝手に勘違いして、頭に血をのぼらせて……彼が怒る理由なんか全然ないのに」

 口の中につばが湧く。つばが呼び水になって、胃液が逆流してくる。口と胸をおさえた香 を恵理はまっすぐ見つめてきた。恵理の次の言葉を香は聞きたくなかった。

「流れたのはあなたの子、私と香の子」

 可能性はあったはずなのに、なぜかこのときまで香の頭からその可能性はすっぽり抜け落ちていた。

「死んだのは香の子だよ」

「嘘だろ」

 口にした後、香は呻いた。言ってはいけないことだったから。恵理はとても傷ついた顔をしていた。それを見て、香はもう一度後悔した。やっぱり言うべきことではなかった……こんな、責任逃れのセリフを。

 香は両手に顔を載せた。

 後悔は波のように……だが、自分は一体何を悔いているのだろう。

「香」

 恵理の声がすぐ耳元から聞こえる。

「私のこと、好き?」

 香はこたえることができない。

「私のこと、愛している?」

 香はためらい、迷い、頷いた。

「よかった」

 肩に恵理の重みがのしかかる。

 何が「よかった」のか。香は呆然としたまま、カーテンを見つめた。カーテンの隙間からのぞく青空を見つめていた。