実が落ちる前に

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現在⑥-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「紗江」

 父親に話しかけられて、紗江は思わず箸を置いた。朝食の席だ。

「香は今日は何をするんじゃろ」

「さあ」

「知らんのんか。仲がええようじゃけえ、てっきり知っとるんかと思った」

 紗江は父親の言わんとしていることが分からず、困惑する。

「できとるんか」

 父親の目がじっと紗江を見つめる。紗江は慌てて否定した。

「そんなわけないじゃん」

「そうか」

 父は「それがいい」とも「それは残念だ」とも言わなかった。

「香に何か用なん?」

「そうじゃないが」

 父親はまた朝刊の見出しに目を戻した。

 紗江がほっとしたとき、父親の言葉が耳に突き刺さった。

「あまり軽々しいことをするなよ。皆、噂しとる」

 不意打ちだった。紗江は心臓をきゅっと掴まれたような気がした。食器を手早く重ね、台所に逃げた。

 島にどんな噂が流れているのか。気にはなるが、訊いて回ってはかえって藪蛇になる。弁解なんかしたらなおさらだ。自分から罠にかかるようなものだ。

 彼の耳に入っていなければいいのだけれど……紗江は恥ずかしさに耳が熱くなった。「どこそこの娘が、息子が」しか話題のない島にも、そんなことをおもしろおかしく噂し合っている島の人達にも、そしてつまらない噂を気にかけている父親も、紗江は恥ずかしかった。島から離れて暮らしていた彼はきっと呆れると思うから……紗江が島を、自分が生きてきた世界を恥ずかしいと思うのは、初めてのことだった。

 

 革靴で玄関から出て行った父親の後を、父親に気付かれぬようについて行くと、本家に着いてしまった。

 やっぱり香に会うつもりだったんじゃん。

 紗江はそっと庭に回って、縁側で息をひそめた。縁側の閉めきった障子の向こうから二人の話し声が聞こえてきた。紗江は自分の影が障子に映らないことを確かめながら、縁側の隅に腰をかけた。

「前にも話したが、うちのばあさんももう長うはない」

 父親の声がはっきり聞こえてきた。

 十二年前、祖母の大腸がんが見つかった。あの頃、祖母はよく貧血を起こして倒れていた。「これはおかしいぞ」と病院で検査したところ、大腸での出血が貧血の原因だと分かった。ステージⅢの大腸がんだった。すぐに手術をしてがんを切除した。年も年だから、その後も色々あったが、何だかんだ切り抜けてきた。それなのに今年の一月、今度は肝臓への移転が見つかった。医者はもう手術はできないと言っている。先のことは誰にも分からないけれど、もってあと半年、と。

「まだ先の話なんだけどな。あんた、相続放棄をしてくれる気はないか」

相続放棄……?」

 薄い障子紙は香の小さな呟き声も遮らなかった。

 こんな話をしに父親は香を訪ねたのか。

 まだ死んでいない祖母の死後の話をしているからか、それとも金の話だからか、紗江は複雑な気持ちになって、背中を丸めた。揃えた膝の上で両手を組み、顎をのせた。

「悠太朗さんはばあさんの子じゃけえな、ばあさんの遺産を相続する権利がある。あれは死んだけえ、息子のあんたは代襲相続できるんじゃと」

 父親の声音はどこか不服そうだ。

「僕が父の分……遺産の半分を受け取れる」

「じゃが、悠太朗さんは本家に養子に出た身じゃ。本家の財産はあれのもんになった。うちにいるよりもずっと多くの財産を受け取ることができた。まあ、死んじまったけどよ。でも後を継いだあんたがそっくりそのまま受け取るんじゃけん、うちのばあさんの遺産まで欲しがることをすりゃあ、そりゃああんまりにごうつくばりだ。ばあさんはうちの君江に遺産全部を相続してほしいと言うとる。あんたにゃあ、ばあさんの前で相続放棄する言うて約束してほしいんじゃ」

 香の返事はない。

 苛立ちを滲ませた父親の声が続く。

「あんたは知らんかもしれんが、うちのじいさんが死んだとき、悠太朗さんは相続放棄してくれたで。そんとき、ばあさんのときもしちゃる言うてくれとった。ばあさんの財産はうちの家と土地、それに会社の株でほとんどじゃ。あんたがうちの株を持っても仕方ないじゃろ」

 父親が指先で机を叩いているのだろう。トントンとなる音は少しずつ大きくなっていく。

「あんたがこの前、言うてた話な、うちはあんたに口を出さんことにしたで。君江は最後まで納得せんかったが、あれは口だけじゃ。俺はそもそも興味ないし、ばあさんももう諦めとる。ここに来る前も俺に、あんたにそう言うように頼んだくらいじゃ。もちろん、あの話はまだ生きとるよ。うちが買うっちゅう話じゃ。でもそれはまた今度、ゆっくり話せばええ。とにかく今は相続放棄をする言うて、ばあさんを安心させてほしいんだよ」

「言うだけでええんですか」

「いや、もちろん、約束したからには守ってもらわんと」

 沈黙があった。

「俺はな、相続でもめることだけはしとうない。みっともないし、もめりゃあしこりが残る。どうしたって今まで通りというわけにはいかんくなる。俺はいくつも見てきたんだ。相続で家がだめになるのをな。あんた、葬式にも顔を見せんくらいだし、向こうの親戚とは上手くいってないんじゃろ。うちと疎遠になったら、あんた、一人になるぞ。それでええんか。うちはあんたと縁を切るようなことはしたくない。だから俺らはあんたの言い分を飲んだ。あんたはどうするつもりなんだ?」

「僕は……」

「あんただってこの家が自分だけのもんだとは思うておらんじゃろ」

 野良猫が枯れ池で日向ぼっこをしている。池掃除の際、鯉を追いやっておく池底のくぼみに雨水がたまっていて、猫はそれで喉を湿らせながら、時々とかげやあめんぼを引っ張り出して遊んでいる。

 沈黙が長かったせいで、うっかり聞き逃してしまいそうになった。

「僕はしませんよ、相続放棄なんか」

 本家の門の影に誰かが立っていた。紗江はそれに気づき、縁側から腰を上げた。人影は紗江から逃げるように門を離れる。いくらも進まないうちにすぐに追いついた。

「ばあちゃん」

 祖母は息を弾ませながら、紗江を見上げている。

「やれやれ、恥ずかしいところを見られたね」

「なんで逃げるん?」

「あんたが追いかけるけえ」

「私の足がはようてよかったね。早いとこ決着をつけんと、ばあちゃん、倒れとったわ。それにしてもどうしたん? 父ちゃんと一緒に来たん?」

「ばあちゃんの悪い癖じゃ。秀夫さんに頼んどいて何じゃが、うまくいっとるか気になってね」

 祖母は探るような目で紗江を見つめてきた。紗江が縁側で盗み聞きしていたことは祖母には隠しようがない。

「だめだって。相続放棄はしない言うとった」

 祖母は顔の皺をさらに深くしてから、「ほうかい」と呟いた。

 祖母はえんじ色のカーディガンの前を掻き合わせて、首を竦めた。急に風が冷たくなった。チョコレート色のスカートが揺れて、祖母の痩せ細ったふくらはぎに絡みついた。

 紗江は首に巻いていたストールを祖母の肩にかけた。並んで帰りながら、祖母の細い背中を時々見た。

「ばあちゃん、ズボンを履けばええのに。寒いじゃろ」

「あがいな野良着、恥ずかしくて外に出れんわ」

 翌日も父は香の説得をしに出かけて行った。父親が帰宅したときの様子から今日の首尾を想像し祖母に教えた。祖母は「もうだめだなあ」とまるで他人事のようにつぶやいた。

 夕食の席で、祖母は父にもう行かんでええと言った。父はほっとした様子だったが、母は口をかたく閉ざし頑なに視線をテレビに向けている。母は何も言わないが背中で父親の不首尾を詰っていた。母の不機嫌が伝染したのか、父の口数も徐々に少なくなった。紗江は最後までテレビの話題で場を和ませようとしたのだが、その努力は実らなかった。そりゃあ、そうだ。どうやって東京で人気のイタリア料理屋さんの話題で盛り上がれというのだ、この……瀬戸内海の片隅で。

 

「どうして相続放棄してくれんの」

 香は縁側で猫にえさをやりながら、うるさそうに耳の横で手のひらをひらひらと降った。