実が落ちる前に

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現在⑥-2 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「どうして相続放棄してくれんの」

 香は縁側で猫にえさをやりながら、うるさそうに耳の横で手のひらをひらひらと降った。香がさっきからえさにしているのは昔ここで飼っていた鯉のえさだ。もう二十年も昔のえさだが、野良猫はありがたがって食べている。

「自分の懐に入る金をみすみす見逃す人間がいるか」

「お金に困っているわけじゃないくせに、こっちの分までとるんだ」

「その台詞、そっくりそのまま、そちらにお返しするよ」

 紗江は言葉に詰まった。体育座りの膝に顎を埋める。悔しいが、彼の言い分はもっともだ。彼には権利があるし、それを無理矢理放棄させることはできない。それは分かっているけれど。

「よくんどうはげ」

「おい、俺はまだはげてはいないぞ」

 紗江は香の抗議を上の空で聞き流す。

 紗江は昨夜から続く家の険悪な雰囲気に耐えられなかった。

 今朝のニュースは終始、首都圏で例年より二週間も早く積雪し交通が麻痺、そのせいで通勤に影響が出ているという話題だった。父は東京ネタが嫌いだ。東京の電車が止まったことを全国ニュースで流す必要があるのかとさっそく噛みついた。こういうときの父はしつこい。紗江は、他にニュースがないってことよ、日本は平和でええねと言ってそのニュースをスルーしようとした。紗江の目論見は失敗した。続いて流れたニュースが東京のグルメ情報だったのだ。紗江は思わずテレビに向かって「いい加減にしろ」と叫びそうになった。妬みかやっかみか知らないが、「東京の人はええな」と父親がまたねちねちと言い始める。それを聞いていた母の苛立ちがついに頂点を迎えた。「見たくないのなら切りんさい」と言って、いきなりテレビを切ったのだ。その瞬間、朝食の席は重苦しい空気に包まれた。

「ふーん、そりゃあ、大変だったな」

 香は他人事のように……まあ実際に他人事なのだが、その元凶が自分であることに気付いているくせにまるで気づかないようにおもしろがるから腹立たしい。

「でも父親なんか、不機嫌でも放っておけばいいじゃん。別に紗江のせいでそんなになっているわけじゃないんだし」

 あんたのせいだからね、と言いたいのをぐっと我慢して紗江は嘘をつく。

「そりゃそうだけど。皆が不機嫌だと疲れちゃうじゃん」

 紗江を神経質にさせる不安の種はそんなところにあるわけではない。

 今現在の自分の不安定な立場が紗江を神経質にしているのだ。学校も辞め働きにも出ず、社会のどの集団にも属さない自分。守ってくれるのは家であり父親であり、父親が稼いでくれるお金だ。自分で稼ぐ自身がないか、紗江は父親の機嫌を損ね「家から出ていけ」と言われることを一番恐れている。

 動物たちは、鳥であれねずみであれ猿であれ、どんなにかわいがって育てた子供でも一定の子育て期間を過ぎれば、親は子を巣から追い出す。子供に食べ物を与えて聞から守るという本能のスイッチがある日突然、切れるのだ。

 紗江がもう子供ではないということを両親が気づく、その瞬間を紗江は何よりも恐れている。だから両親が紗江ににこにこしてくれると安心するし、両親が喧嘩をすると不安になるのだ。

 自立すれば、いくら両親が喧嘩しようが、勝手にすればと言えるのだろう。だが紗江は、どんな形でも自分が社会に参加しているという姿を思い浮かべることができない。

 気づくと、香は急に押し黙った紗江の心の奥を覗き込むような目で紗江を見ていた。紗江の動揺に気付くと、わざとらしく目を見開いた。

「紗江はどうしてそう、臆病なのかなあ。島の居心地がよすぎるのかな」

 紗江はむっとした。昔から言われ続けたことだからだ。

 香は紗江の怒りをいなすように笑った。

「それともプライドが高いのかな。島にいれば瀬田さんとこのお嬢様だもんね」

 紗江は唇をかみしめた。

 香は紗江の心中に気づかないわけがないのに頭から無視して、まるで世間話をするような気楽さでしゃべり続けた。

「島の外だってそう怖いところじゃないんだし。勇気出して、出てみたら?」

「どうして香にそんなことを言われなきゃいけんの。香には関係ないじゃん」

「だってここの人は言ってくれないだろ」

 香はすり寄ってきた野良猫の腹を撫でる。

「怖いの? 島の外」

 紗江は膝に顎をつけた。

「それとも子供でいられなくなるのが怖い?」

 紗江は膝に額をつけた。

「じゃあさ、俺と一緒ならどう? それでも怖い?」

 驚いて顔を上げると、目の前に香の笑顔があった。

「冗談だよ」

 紗江は香の脇腹に渾身のパンチを食らわせた。香は噎せながら、危うく縁側から落ちそうになった。仰向けにじゃれていた野良猫は飛び上がり、枯れ池の向こうまで逃げてしまった。

 香が言ったことは図星だった。

 一歩外に出たら何者でもない自分がそこにいる。

 特別扱いしてもらいたいわけではない。ただ自分の立ち位置が分からないのだ。そういう努力を島ではしたことがなかった。島では名札をつけて歩いているのと同じだ。物心がついたときからそうだった。自己紹介をしなくても、相手は紗江のことを分かってくれる。そしてここでは、紗江の居場所はちゃんと用意されている。

 島の外ではぼんやり立っていても誰も気付かない。自分の居場所は自分で確保しなければいないのと同じだ。だが紗江は自己紹介することが苦手だった。

「人を殴った後、今度は物思い?」

 やっと呼吸を整えた香は皮肉まじりに言う。 

 香はふと怖くなったり、自分の目にうつる世界がまやかしではないかという不安に襲われたりしないのだろうか。

「香は知っとるん、おじさんが横領していたこと」

 香はまた目を見開いた。だが、それはさっきまでのふざけ半分からかい半分の表情ではない……表情がなくなった。フリーズしたように香は動きを止めた。いつも落ち着きのない彼が静止している。香の頭の中のコンピュータが「横領」という言葉の意味を検索している、その検索音が聞こえてくるような気がした。

 紗江は助け船を出すつもりで翔平や母親から聞いたことを香に教えた。

「そっか、そんなことがあったんだ。教えてくれてありがとう」

 口ではそう言うが、頭はまだ追いついていないことは香の表情を見れば明白だ。香はうつろな目のまましばらく庭をぼんやり見ていた。

「父さんにはばあちゃんを殺す動機があったんだ」

 紗江はためらった後、小さく頷いて肯定した。

 だが、紗江は悠太朗が積極的に洋子を殺害したとは思わない。たとえば鈍器を持って物陰に隠れ洋子が通りかかるのをうかがっている悠太朗、たとえば蔵や物置から凶器になりそうなものを物色している悠太朗、こんな彼は想像できない。もののはずみだったのだと思う。洋子と口論になったとき、悠太朗は思わず洋子の肩を押したのだ。もしかしたら洋子の方から先に手が出たのかもしれない。夫の愛人と自分が育てた息子が結託して犯罪を犯した、自分をのけ者にして……激昂するのなら洋子の方だ。

 紗江は自分の考えを口にした。香はうんうんと頷きながら聞いていたが、光明を見出したというふうではなかった。むしろ、表情はどんどん暗くなっていく……悠太朗が斧を持って洋子を襲ったというよりはずっとましな解釈のはずなのに、どうして彼がそんな表情をするのかが分からない。紗江が尋ねると香は苦笑しながら、一言「馬鹿だなあと思って」と言った。 

 馬鹿だなあ……うっかり人殺しなんかになって。馬鹿だなあ……敵の甘言に耳を傾けて似合わない横領なんかに手を出して。馬鹿だなあ……その結果、何もかも失って、育ての母親だけでなく妻や娘まで手にかけて。

「さすが、俺の親。頭の出来もどっこいどっこい。血は争えない」

 香は自嘲しながら、煙草に火をつけた。一口吸って、噎せる。空になったたばこの箱を捻りながら、

「十七年だよ、十七年」

 香はボソッと言った。紗江は「え?」と聞き返す。

「なまじ金を持っているから、いくらでもとられる。本家の財産? そんなものとっくの昔に売っているよ。めぼしいものはもう何もありゃしない」 

 初めて知らされる本家の内情に紗江は驚きを隠せなかった。本当だろうか。本家にもう何も残っていないなんて……香は嘘や冗談を言っているような表情ではなかった。

 愚痴の後、香は気をとり直すようににこっと笑う。

「でも、すげえ皮肉だな。うちの馬鹿親父の横領をもみ消すために買い取った株を今度は俺が相続する。おばさん、怒り心頭だろうな。おー、こわ。さすがのばあさんもキレるかな。こりゃ、死ぬに死ねないな」

 紗江にとってはちっとも笑い話ではないのに、香は「おかしいよね」と紗江に同意を求めながら、あははと笑う。笑いたいだけ笑うと、今度は晩んお煙草の心配だ。

「煙草、切れちゃった。どこ、売っているんだろ」

「フェリー乗り場んとこの売店。あとは農協のスーパーに自動販売機があったような気が」

 古ぼけた自動販売機が頭に浮かぶ。ただ、今もあるのかどうか、紗江自身が吸わないから普段意識して見ていないのだ。あったような気もするし、もう何年も見かけていないような気もする。

 香はまた咳込む。吸い過ぎではなかろうか。紗江の心配をよそに香は、煙草を根元まで吸った。そして、縁側に落ちた灰を手のひらで地面に払い落す。

 灰が風に舞い上がる。

 香は吹く風にしばらく目を細めた後、

「この前、楽しかったな。三神島……遠足みたいで」

 墓参りなのに遠足だなんて……彼らしい。「また行こうよ、三人で。今度はお弁当も持って」

 香はおかしそうに笑う。

「墓地で弁当、広げんの? 罰が当たりそうだなあ」

「墓、掘り返すよりはましじゃないの?」

 紗江はそっと香の反応をうかがう。だが、香には顕著な反応はなかった。もうこだわっていないのだろうか……やっぱり、あれはあの場だけの思いつきで、紗江が深読みしたような、前々からの計画ではなかったのだろうか。

「そういえば変なものを見つけたよね」

「変なもの?」

 香は怪訝そうな顔をする。

「お守り、香が掘り出したんじゃん」

「ああ、そういえば」

「あれ、誰のだったんだろうね。どうしてあんなところに」

「誰かが落としたんだろ」

「でも、それだったら埋まったりしないんじゃない?」

 長い年月をかけて土が堆積した……? いや、そうなる前に風で吹き飛ばされてしまうだろう。

「じゃあ、骨を埋めるときに誰かが落としたんだろ」

 紗江はもう一度香の顔を見る。だが、やっぱり彼の表情は変わらない。香が紗江の視線に気づき、「うん?」と小首をかしげる。紗江は「何でもない」と首を振ったが、胸には得体のしれない不安が広がっている。

 不安の正体を知りたくて、紗江は無意識のうちに香の腕を掴んでいた。香は紗江の不安に気づかない。

「そうだな、また行ければいいな」

 彼は含みのある口ぶりだった。そんな未来が来ないことを香はすでに知っているような気がした。

 遠からず、香はこの島から出て行く……不安の正体はこれなのか。

 

 紗江は黒い船の上で揺れていた。