実が落ちる前に

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現在⑥-3 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 紗江は黒い船の上で揺れていた。

 海は黒い。夜なのだ。船尾の向こうに陸地の大きな影が見える。あの形は紗江が住んでいる島の影ではない。紗江は船首の方に歩いた。

「紗江」

 自分を呼ぶ声に紗江は辺りを見回した。船の上にいるのは紗江だけだ。

 まさかと思って船の手すりに駆け寄る。上半身を海にのり出しながら、黒い海面を見下ろすと、そこだけスポットライトが当たったようにきらきらと光っていた。

 紗江を呼んでいたのは香だった。香は海に浮いていた。静かな海面に顔だけを出して立ち泳ぎしている。

「紗江もこっちに来なよ」

「嫌、怖い」

 泳ぐのは苦手ではない。だがもう何年も海に入っていない。体力に自信がなかった。足がつるかもしれない。泳ぎ方を忘れているかもしれない。子供のときは何も考えず海に飛び込めた。足が届かない深いところまで泳いで行けた。大人になった今、脚はあの頃よりも長くなったのに、あの頃のようには海に飛び込めない。飛び込んだ瞬間、きっと足がつって溺れてしまう。

「大丈夫だよ」と香は言う。

「波もないし、風もない。恐れることは何もない」

 それでも紗江は怖かった。紗江が拒むと、香は目を見開き「どうして?」と首を傾げる。

「じゃあ、紗江は島に帰るんだね」

「えっ」

 紗江は顔を海面から上げて船首を見た。

 島の影が大きくなっている。もう目の前だ。

「早くしないと、島についちゃうよ」

 香は腕で水を掻き、船と並走している。いつの間にか、香は昔の……島を出て行ったときの少年の姿になっていた。

「ほら、溺れたりしないのに、紗江は臆病だなあ。まあいっか。紗江は島が大好きだから、島に帰っても」

 いつの間にか、香は十七年前、島を出て行ったときの少年に戻っていた。

 少年の香は仰向けになると海から両腕を空に向かって突き出した。水滴が白い腕をするすると落ちて行く。香はその手で海面を叩いた。香の身体の周りに何重もの水紋ができた。水紋は次第に大きな円になりながら香の体から離れて行き、やがて消えた。香は立ち泳ぎに戻ると、船とは反対の方向に泳ぎ始めた。

「待って、置いていかないで。私も連れて行って」

「自分で飛び込まなきゃ、どこにも行けない」

 紗江は船の手すりに右足を載せた。両手でぐっと身体を持ち上げようとしたとき、紗江の背後に誰かが立った。

「紗江、忘れもんだよ」 

 いきなり背中に何かをくくりつける。重い。紗江は上半身を起こすことができず、脚を曲げ腰をかがめた。

「ほれ、これも」

 今度は違う声だ。声と同時に、また背中の荷物が重くなる。

 紗江は首を曲げて、自分の背中を見た。

 石だ。いつの間に腰におんぶ紐がくくりつけられている。

「ほれ、これもだよ」

 石の上に石を載せる。誰の腕なのか。細い干からびたような腕が闇に浮かんでいる。

「ほれ、これも」

 闇の腕は新しい石を持っている。

「出て行くつもりなら、全部持って行ってもらわんと。ほれ」

 紗江は身体ごと振り返り、両腕を前に突き出した。腕の持ち主の肩があるあたりをぐっと押した。だが、身体があるはずの場所には何もなかった。紗江の両腕は空を切った。

「ほれ、これも」

 闇に浮いた腕はまた新しい石を持っている。

「ほらよ」

 石は紗江の胸に向かって放られた。紗江は思わず、両腕を伸ばしてそれを受け取った。そうしなければ石が足の上に落ちてしまう。昔から、体育は苦手だったのになぜかドッジボールだけは得意だったのだ。

「まだまだあるよ。ほれ」

「やめて。もう持てない」

 胸の石は重く、紗江は手すりで腰を支えてる。だがその手すりも腰までしかない。背中の後ろには何もない。

 そのときだった。闇の腕は最後に子供ほどもある石を紗江の胸めがけて投げてきた。紗江は叫んだ。

 胸にどしんと衝撃があった。息が詰まる。肋骨と背骨が粉々に砕ける。次の瞬間、紗江の身体は海に向かって落ちていた。

 背中には石の山。胸に子供ほどもある大きな石。

 嫌だ、嫌だ、沈んじゃう。溺れないなんて嘘だ。

 誰か助けて。

 目に耳に海水が入ってくる。身体はどんどん沈んでいく。腕を伸ばしても、指先さえもう海面から出ない。苦しい。肺の空気が泡になってぶくぶくと上に向かっていく。

 助けて。

 遠い海面の、さらにその上に月が揺れている。紗江が吐き出した最後の泡が月と重なった。

 

 飛び起きた瞬間、しゃっくりに襲われた。寝汗で濡れたスウェットが肌に張り付く。頭の先まで海水に浸かった、あの感覚が蘇り、まるで悪夢が続いているような不快感を覚えた。

 胸がドキドキする。紗江は頭から布団をかぶると、布団の暗闇の中でスウェットの下の薄い胸を押さえた。息をしちゃいけない、胸の空気を吐くと大切なことまで一緒に吐き出してしまう……せっかく思い出したこと、ここで手放したら二度とつかめない。

 紗江は息を止めて、夢の感触をたどる。まず蘇るのが不快感……そして息苦しさ、焦燥感……紗江はスウェットの中に手を入れた。薄い脂肪の下の肋骨を指でなぞる。背負わされくくりつけられた重石で粉々に砕けたと思ったけれど、夢は夢だ……一本も折れてなんかいない……

 そのとき、待ちに待っていたものが紗江の頭に飛来した。つかみ取ったものと引き換えに、紗江の肺はついに限界に達した。紗江は布団の中で大きく息を吸った。

 呼吸を整える間も、紗江は一点を見つめ続けていた。

 夢の中、身体が海の底に沈んでいく恐怖が蘇る。

 怖かった。苦しかった。

 悠太朗が洋子をこんな目に合わせるはずがない。

 そうなのだ、悠太朗なら絶対に洋子を海に捨てたりしない。荼毘にもふさず、ゴミのように海に捨てるなんてそんなひどいこと、悠太朗にはできない。自分が殺したとしても……それならなおさらだ。

 紗江は枕に巻き付けていたバスタオルをはぎ取り、目に当てた。今更ながら夢の恐怖に襲われ、紗江は怖いやら、悲しいやら、こんな簡単なことさえ今の今まで分からなかった自分の至らなさが情けないやら、諸々の感情は胸の中でミキサーにかけられ、膨らみ、あふれだし、酸っぱい液体が紗江の喉元まで押し寄せる。紗江は泣き声と一緒にそれも飲み込んだ。

 最後に、バスタオルでごしごしと目元を拭く。ヒリヒリとした痛みを覚えつつ、紗江は布団から顔を出した。

 今、何時だろう。もう夜が明けるのだろうか。

 枕元に置いたはずのスマートフォンを手探りで探しながら、紗江は窓を見た。

 カーテンで閉め切った窓、そのカーテンの隙間から赤い光が漏れていた。 

 何、これ。

 紗江はベッドから飛び起きた……つもりだったが、毛布に足をとられ転げ落ちた。

 すぐに立ち上がり窓に駆け寄る。そしてカーテンを開けた。

 窓の向こう、闇の中で燃えているのは本家だった。

 あのときと同じように本家が燃えている。

 まだ夢の中なの。

 赤く燃え上がる本家、その手前でうごめく影。紗江は部屋から飛び出た。

 

 本家の周りにはすでに多くの人が集まっていた。消防団の消火活動も始まっている。消防車のサイレンの音はすぐ近くまで迫っていた。何もかも昔と同じ、ただ違うのは燃えているのが納屋ではなく蔵で、部屋の中で紗江が燃えていると思った母屋は無事だった。だが、いつ火の粉が母屋に降りかかるか分からない。さっきから聞こえる悲鳴とも奇声ともとれない甲高い声は祖母か母親か。だが、紗江は声の主ではなく彼の姿を探した。

 野次馬が多い。紗江は野次馬をかき分け、前に進む。

 沙紀ちゃんは見つからなかった。納屋が燃えている間中、紗江は探し回ったけれど、夜のうちに沙紀ちゃんを見つけることはできなかった。

 野次馬の密度が高くなる。紗江は人と人の間を縫うようにして、前に突き進む。野次馬の列を突き抜けたその先……紗江は安堵で腰が抜けそうになった。これは夢ではない、過去の繰り返しでもない。

 香もまた腰が抜けたまま立てないようだ。地面にへたり込んだままで呆然と燃える蔵を見上げている。香がいるのは昔、納屋が建っていた場所で、島のことだから野次馬も遠慮がない、特に用があるわけでもなさそうな野次馬まで門の中に入り込んでいる。

 香のそばに寄りそうにように、翔平がいた。翔平は香の耳元で何か言ったり、香の肩をゆさぶったりしているが、香は全く反応していなかった。

 翔平が紗江に気付き、片手を上げる。その顔はどことなくほっとしたようだった。

「香」

 紗江も香のそば、翔平と反対側に膝をつこうとするが、その前に消防士に蔵からもう少し離れるように言われた。翔平がさっきから困り顔だったのは、このためだったのだ。

「香、立って」

 やっぱり返事はない。紗江がいることにも気付いていないようだ。呆けた顔で火事を見つめている。

 紗江は翔平と一瞬目を合わせた。それでお互いの考えていることは通じ合った。

 紗江は香の右腕、翔平が左腕を抱える。こうなれば力ずくだ。

 無理やり香を立たせると、門の方へ香を引きずる。香は肩越しに蔵を見上げていたが、足は紗江らの動きに合わせて動く。紗江は知らず知らず、香の腕を掴む手に力を入れていた。少しでも力を抜くと、恵理の手から香がするり抜けてしまう気がした。脳裏に浮かぶのは、燃えた沙紀ちゃんの姿。

 人混みをかき分ける。門から出て道路へ、野次馬の群れを抜け、瀬田家の門をくぐる。門をくぐったところで、三人の緊張が同時に解けた。三人揃って尻餅をつくように地面に膝や尻をつけた。

 本家ほど広くはないが庭がある。紗江は門ごしに外を見た。こちらを見ているのは数名、ほとんどの野次馬はいまだ燃えている蔵を見ている。こちらを見ていた数名も紗江らが門をくぐったのを見て安心したのか、顔を本家に戻した。

 香の体が震えているのに気づいた。

 寒いのだろうか。火事場から命からがら逃げ出したのだろう、香は上下スウェット、足元は素足につっかけだ。やっぱり家の中まで連れて行った方がよかったのかもしれない。とりあえず、羽織るものを何か……

「見てこなきゃ」

「えっ?」

 立ち上がりかけていた紗江の耳に香の小さな声が聞こえてきた。

「誰かが残っているかも」

 香がふらり立ち上がる。

「ま、待って」

 紗江が伸ばした手は香に届かなかった。その代わり、翔平が香を背後から抱きかかえるようにして、家事場に戻ろうとする香を止めた。

 香は翔平の腕から逃れようとしたが、体格に差がある、その上呆然自失の香の動きは緩慢だ。翔平によって、再び香は地面に尻をつけた。 

 ここからは門ごしに、暗い空に舞い上がる火の粉しか見えない。

 空を見上げていた香はそのうち顔を下に向けた。そして両手で顔を覆う。

 それまで、羽交い絞めのようにして香を抱きかかえていた翔平がその腕を緩めた。翔平は香の前に回り込む。香がもう一度立ち上がって火事場に向かうのを防いでいるようでもあり、香の泣き顔を自分の体で隠しているようにも見えた。

 紗江はそっと香の背中に手を当てた。背骨が浮いている。丸めた背中には肋骨も浮き出ている。そして、その背中はやっぱり震えていた。