実が落ちる前に

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過去⑥-1 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 年が明けて九日、恵理は防府天満宮の駐車場に車をとめた。香はシートベルトを外して、助手席から外に出る。

 頬に一月の冷たい風が突き刺さる。香は風でほどけるマフラーを巻き直す。

 顔にぺしんとマフラーが当たる。またほどけたのかと思ったが、今度のマフラーは恵理のそれだった。香は恵理のマフラーの両端を恵理の項で縛った。

 年末年始はヘルパーを頼めなかったから、初詣が今日まで伸びた。今日は割り増し料金でいつもよりも長時間、武朗の面倒を見てもらっている。

 閑散とした境内を見回す。松もとれたのだから当たり前だが、境内にはもう正月の余韻はない。受験シーズン最後の神頼みが四、五人……香らは彼らの後ろに並び、平均よりも少しばかり長い彼らの参拝を待った。

 初詣を済ませ、社務所へ足を向けた。

「どうして今更、学業のお守り?」

 おみくじで見事大凶を引き当てた香を散々からかった後、恵理はにやついた顔のまま、香の手元を覗き込む。

「もしかして、大学に入り直すの?」

「ああ、それもいいかもな」

 香は上の空で適当な返事をしながら、頭の中では遠い記憶を探っていた。

 色は赤……布地の柄までは覚えていない。学業祈願だったか、学業成就だったか……

「どれも同じよ」

 事情を知らない恵理は、軽い調子で言った。

 事情を知らないからそんな軽口が叩けるのだと思ったが、考え直し、「それもそうだな」と思った。

 本物と偽物を並べて見比べるわけではない。また、偽物を本物といって警察に見せるわけではない。きっかけ作りの小道具に使うだけだ。

 父親が持っていたお守りは、ここ防府天満宮のお守りだった。それだけは覚えている。学業の神様といえば防府天満宮、ここらへんではそう相場が決まっている。

 香は赤色の学業祈願のお守りを一つ買った。

「梅餅、買って帰らなきゃ」

 言いながら恵理は香の腕にしがみつく。

「ういろうは?」

「ういろうも」

「おみやげにするの?」

「香と食べるの」

 帰りは香が運転した。恵理は助手席で寝ている。昨日は仕事で夜遅かったらしい。

 赤信号で止まる。ハンドルから手を離し、コートのポケットを探った。お守りがそこにあることを指先で確認する。

 お守りを買ったものの、香はまだ決めきれていない。というよりも、現実感がなかった。

 恵理はあの彼氏とは別れたらしい。仕事もいつまで続けるか分からない。恵理は今、二股をかけた挙句浮気相手の子を妊娠、しかも流産させられ恋人にも捨てられた女ということになっているのだ。それは、さぞやいづらかろうと思う。

 責任をとらなきゃいけないのだろう。責任をとるということは、これからは恵理のために生きるということ、恵理の幸せを第一に考えて、いつかは流産した子供の代わりを恵理に……。

 買ってはみたものの、このお守りを使うことはないかもしれないなと思った。これからの人生を恵理と生きるのであれば、自分にはもう、過去も島も、祖母の骨もいらない。

 だとしたら、今日一日は単なるドライブ……ただの初詣、ただのデートか。

 時間の無駄という結論を出しかけて、香は「それもいいじゃないか」と打ち消した。恵理ははなからそのつもりだし、香にしたってこんなにリラックスした一日は久しぶりなんだし……それに、これまで恵理とホームセンターとスーパー、それにドラッグストア以外の目的で、二人で車を走らせたことはない。

 なんだ、ということは今日は二人の初デートじゃないか。

 香は横目で、恵理の寝顔を見た。初めて、その無防備な横顔を愛おしいと思った。

 アパート前の駐車場に車を入れた。恵理がアパートに寄っていけと誘うが、香は断った。そろそろヘルパーさんが帰る時間だ。

「傘、借りていい?」

 小雨が降り始めてきた。

 二人並んで恵理のアパートへ……そのとき、香は誰かに見られているような気がした。あたりを見回す。車道をはさんで反対側の歩道を傘をさした女子高生が二人並んで歩いている。二人組を主婦の自転車が抜かしていく。耳障りなベルの音が耳に残る。

 肩越しに背後を見ると、さっきまでなかった宅急便のトラックが半ば歩道にのりあげて止まっていた。荷台から段ボールを抱えた男性が飛びおりる。

 他にも人はいたが、誰も香らを見てはいない。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

 香は顔を元に戻した。すると、それを待っていたかのように誰かの視線が香を突き刺す。気のせいだろうか。

 アパートのエレベータからおり、恵理の部屋の前へ。以前の貼り紙を思い出し身構えたが、ドアに貼り紙はなかった。密着した部分の恵理の肩から力が抜けたのを香は気付いていた。今日はたまたま貼られていなかっただけ、まだ嫌がらせは続いているのだろう。でも、どうして……恵理はもうあの男とは別れたのに。彼が好きだから恵理の二股を告発した……のではなかったのか? 

「今日はおとなしいね」

「えっ?」

「口数、いつもの半分以下だよ」

「そんなことないよ」

 香は部屋には入らずそのまま帰るつもりだったが、恵理に引っ張り込まれ、玄関に上がった。そこで恵理を抱きしめる。力を込めて抱きしめたのに、なぜか恵理の体と自分の間に風が吹き込んだような気がした。

「香、何を考えているの?」

「何も」

「嘘。今日はずっと怖い顔をしているよ」

「怖い顔?」

 香は掌で顔を撫でた。

 恵理は香の体を突き放す。そして、思いがけないことを言った。

「私以外の女のこと?」

「はっ?」

 香は目を剥く。何を言いだすんだ。香の暮らしぶりをよく知っているくせに。

 だが、恵理は冗談ではないようだった。目は怒気をはらんでいる。

「あの嫌がらせ、まだ続いている。最近は電話も」

「電話?」

「嘘つきって」

 香には恵理が言っていることが分からなかった。恵理はすっと息を吸うと、胸の中のかたまりを吐き出すように、一気に言った。

「香の子じゃないのに香の子だって言って、香をつなぎとめようとしている。愛してもいない男の子供と引き換えに香を手に入れるなんて、よく考えたものね。安い代償だわ、流産の一度や二度、好きな男を手に入れるためなら」

「何だ、それ」

「あなたの彼女がそう言ったの、電話口で」

「俺の彼女?」

 全く知らない、身に覚えのない女の登場に香の頭は混乱を極めていた。混乱したところで、女の顔なんて一人も浮かばない。心当たりは全くないのだ。

「しらばっくれるの?」

 恵理は瞬きもせず、香を見つめている。

「しらばっくれるも何も」

 香は困惑を隠せなかった。知らないものは知らない。自分に恵理以外の女がいて、その女が恵理に自分と別れるよう嫌がらせをしている? そんな馬鹿な……でも、恵理に電話をかけた女はたしかにいるわけで……

「その女が誰だか知らないけど、向こうの勘違いなんじゃ……」

「ふーん、香を柱の陰から見つめている女が私に嫌がらせをしている、と? 彼女は好きな気持ちがありあまって、自分が香の彼女だと思い込んじゃった? 香って案外自信家なんだ」

「別にそういう意味じゃ……」

「じゃあ、これも嘘?」

 そこで恵理はなぜか、目から怒りの色を消した。代わりに気まずそうに目を伏せる。

「香はレイプ魔」

「えっ」

「レイプ魔のくせにのうのうと、平気な顔をして生きている」

 何か言おうとしたが、唇が震えて言うことをきかない。

「そんな香が誰の子だか分からない赤ちゃんを流産したことくらいで罪悪感を覚えたり責任をとるわけがない。そんなことを信じるなんて、頭がお花畑だわ」

 まぶたがぴくぴく痙攣する。その香を恵理は瞬きもせずじっと見つめてくる。

「あの女は誰なの」

 恵理が一歩前に出る。香は一歩後ずさった。背中に玄関のドアが当たる。

「彼女をレイプしたの」

 彼女……従妹の顔が脳裏に浮かぶ。

「私にしたみたいに」

 恵理が彼女に見えた。

 香は体を回して、ドアのノブを持った。その香の手首を恵理が掴む。

「逃げないで。ちゃんと答えて」

 そんなことを言われても、どこからどう説明すればよいのか。

「何も言わずに信じろなんて無理だよ。私には香が信じられない。香に限って、なんて言えない」

 それは、これまでの自分の行いのせい……

「あの女は誰なの」

 香はドアに額をつけた。脳みその奥底に押し込んできた亡霊たちが蘇り、香の頭の中を駆け巡る。

 恵理の声が不意に明るくなる。笑いを含ませた声で、

「私なら平気。今更、香が他の女にひどいことをしてきたなんて知っても驚かないし、失望したりしない」

 それはそれでどうかと思うが……香は心の中で苦笑した。

 恵理が肩に鼻先を押し付けてくる。

「その女は他に何か言っていた?」

「香は渡さない。彼女……私とあなたは同じ土俵だって」

「同じ土俵?」

「私も香に大切な人を殺された。だから、香が私以外の女と子供を作って幸せになるなんて許さない……香、彼女も妊娠させたの?」

 違う、俺は彼女を抱いていない。そんな気も起きなかった、彼女は妹と一緒だから。あれは単なる彼女の自意識過剰だ、思春期特有の……誰もが持っている、だから彼女が悪いわけでもなかった。

「彼女も流産したの? 私と同じように。それとも中絶させたの?」