実が落ちる前に

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過去⑥-2 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「彼女も流産したの? 私と同じように。それとも中絶させたの?」

 閉じた瞼の裏に赤い世界が広がる。

 あの夜も彼女は自分の部屋に鍵をかけていた。一つ屋根の下で暮らす性欲満載の男を自分の部屋に忍び込ませないために。当時、香は高校二年生、彼女はまだ中学生、従妹はたしか妹とおない年だった。

 夜中、家に火がついた。

 祖母以外の家族は二階に寝ていた。焦げた臭いに気付いた香は廊下に出た。叔父と叔母も寝室から飛び出てきた。火の手はまだ階段付近までは伸びておらず、階段を下りたらすぐそこが玄関だった。

 叔父が階段を駆け下りる。祖母が一階の和室にいたのだ。

 香も叔父に続いて階段を下りようとした。そのとき、叔母がついてこないのに気が付いた。

 叔母は娘のドアを叩いていた。

「紫、起きなさい、紫」

 ドアには鍵がかかっていた。香も叔母と一緒にドアを叩いたり引っ張ったり、最後には肩をぶつけたが、ドアはびくともしない。香は焦った。呼吸に煙がまざる。振り返ると、一階から立ち上ってきた煙で階段が見えなくなっていた。

 香は一瞬でパニックに陥った。

 叔母を羽交い絞めにして、力ずくでドアから引きはがす。叔母はドアノブにかじりつく勢いだったが、小柄な叔母よりも高校生男子の力が勝つのは当然、さらに、叔母も完全に理性を失っていたが、香も火事場の馬鹿力を発揮するには十分な精神状態だった。

 香は従妹の部屋の隣、自室に叔母を引っ張る。窓を開ける。そして、小柄な叔母の体を抱え上げた。

 結果は火を見るよりも明らかだった。

 叔母は冷静ではなかったし、窓から放り投げられた瞬間は自分の身に何が起きたのかも分からなかっただろう。中年のおばさんにとっさに受け身をとれというのも無理な注文だ。   

 二階の高さだ。たとえ地面がセメントであろうと、自分から飛び降りる分には、足を痛める程度で命まで落とすことはない。窓の桟に手をかけ、一度体を桟からぶら下げたうえで地面に着地すれば、怪我の心配もない。実際に香はこの方法で二階から脱出し、さらに地面の叔母を避けて飛び降りるという難題もやってのけた。

 火事の翌日、叔母の通夜の前日、香は一日警察で事情を聞かれた。警察官は最初は疑っていた。香がわざと叔母を殺したのではないか、と。さらに驚いたことに、警察官は放火までも疑っていたようだ。警察官に訴えたのは従妹の紫だったということは、叔母の四十九日と納骨の翌日、初めて叔母に手を合わせた後で叔父から聞いた話だ。火事の後、香はアパートで一人暮らしをしていた。もう一緒に住むことはできなかった。

 火事の夜、紫は香たちよりも一足先に二階から飛び降りていた。母親の声は聞こえなかったらしい。風の音、火が燃え上がる音にかき消されたのか、それとも紫もまた無我夢中だったのか。紫は安全に飛び降りた。しかし、飛び降りた先がだめだった。紫の部屋の真下はトイレで、そこが火元だったのだ。飛び降りた後、紫は顔と背中に火傷を負った。

 従妹の家では、夜もトイレの小さな窓を開けて網戸のままにしていた。窓は子供も通れないほど小さなものだったから、そこから泥棒が入ってくる心配はなかったのだ。ただ、灯油を流し込み、火炎瓶を放り込むには十分なサイズだった。

 放火犯は結局捕まらなかった。出火したのは夜中の二時過ぎ、目撃者を望める時間帯ではない。

 紫には散々なじられた。人殺し、放火魔、レイプ魔、恩知らず……香は彼女のボキャブラリーの多さに驚き、言い返す言葉が一つも思い浮かばないから甘んじて全ての罵声を受けた。だから、紫の病室に入る直前は胃がきりきりと痛くなるくらい気が重かったが、それでもこれも自分の義務だと思い、一年間はお見舞いに通った。だが、大学進学を機に香は紫から逃げた。進学先も教えず、アパートも引っ越した。文字通りの夜逃げ、とんずらしたのだ。紫が香を恨むのは当然、香が幸せになるのを許せないのも当然だった。

 だって、紫のあの火傷はきっときれいには治らなかっただろうから。

 香の脳裏に顔中包帯を巻いた紫の姿が蘇る。その包帯の下は真っ黒こげ……いや、違う、真っ黒こげは沙紀、妹の方だ。

 香は目を開けた。目の前に恵理の真剣な顔がある。彼女の目は自分の答えを、次に一言を待っている。

 そうか、紫だったのか。

 香は目を伏せて恵理の期待を背いた。

 二人の周りは静かだった。その静寂の中、恵理がふうっと息を吐いた。

「ごめん」

 言葉を探した挙句、香が発したのはその短い一言だけだった。

 恵理は「別にいいよ」と淡々とした口調で言った。

「私には関係のない話だし。そりゃあ、私以外にも女がいたのはびっくりしたけど。でも嘘をついたというのなら私だって同じだし」

「えっ?」

 香は顔を上げた。

「香の子じゃなかった。日数の計算が合わないもの。彼女の言う通り、私は嘘をついて、香の罪悪感を利用して香をつなぎとめようとした。香、私と結婚するつもりだったんでしょう? 責任をとって。私、心の中でしめしめと思っていた。ずるい女でしょう?」

 

 傘を借りるつもりだったのに結局傘も持たず、香は雨脚の強くなった海沿いの国道を歩いている。うっかり、電車に乗ることも忘れていた。

 ポケットに手をつっこみ、そこにあるお守りを握ったり離したり……ふと気配を感じて振り向いてみるが、車のヘッドライトがまぶしいだけで、歩道には自分以外誰もいなかった。