実が落ちる前に

自作小説を公開するブログです。暇なとき、読んでいただけたらうれしいです。小説は作品ごとにカテゴリー分けしています。日記や雑文はその他カテゴリーです。

現在⑦-3 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 明日は武朗の四十九日である。

 隣家の女達が本家に集まって料理の支度をする。最近では島でも弁当の仕出しを頼むことが多いが、はっすんと白和えは隣家が作ることになっている。

 紗江も朝から大忙しだった。井戸端でごぼうとれんこんの土をたわしで落とす。ゴムの長靴に跳ねた泥がつく。若手の紗江が水仕事をすることになっていた。今日はあいにくの天気で、曇り空の下での水仕事は身体にこたえるし昨日までの片付けからの今日の中腰作業、腰は悲鳴を上げているが、台所に上がるよりは気が楽だ。紗江はこのポジションを気に入っている。

 焼け跡の片付けは結局終わらなかった。ブルーシートを掛けているだけ、だが、島の連中で火事を知らない人はいないのだから、今更焼け跡を隠す必要もない。法事の後、おいおいきれいにしていけばよい。

 紗江は昨日から香と二人で話すタイミングを見つけられずにいる。蔵の火事は香の煙草の火が原因だったということで、香は消防士と刑事と、それに会う人ごとに油をしぼられていたから、紗江の番まで回ってこなかったのだ。

 三神島に洋子はいないこと、あのお守りが祖母ではなく悠太朗のものだったこと、もしかしたら香は父親の形見に欲しいと言うかもしれない。香に言わなければいけないこと、訊きたいことは多くあるが、いずれも他の人がいるところでは話しにくい。

(ということは、法事が終わるまではチャンスはないかもしれないな)

 紗江はため息をついた。もやもやを抱え続けることに紗江は少し疲れている。

 顔を上げると、母親の姿が目に入った。四つん這いになって縁側の油拭きに精を出している。座敷の掃除は本当は昨日やっておくはずだったのだが、片付けやら何やらで、今日になってしまったのだ。予定が狂った母親の苛々は朝にはすでに頂点に達していて、触らぬ神に何とやら、紗江は目を合わせないように努めている。祖母は座敷で花を生けている。母と祖母によって本家から追い出された香はどこに行ったのか、そのへんをほっつき歩いているのだろう。

 洗ったごぼうを持って勝手口に回る。勝手口のドアを開けようとしたとき、ドアの向こうから女達の話し声が聞こえてきた。

「こがいな皿にほんのちょびっとしかないんじゃけん」

「ここの嫁さんがえらかったけえ」

「ほうよ。ここの嫁さんはの、えらい、えらい言うて、実の親子じゃないけんの、何も言えんのんよ」

「それでも誰か教えてあげようよのう。子供が食うんでなし、あれじゃあ、酒の肴にもならんよの」

 話題は香の母親のことだ。紗江の祖父の法事のとき、由紀が作った白和えの量が少なかったという、毎度恒例の会話だ。紗江が知らないくらいだから、由紀が島に来て間もない頃の話だろう。そんなことで死んだ後まで文句を言われたのでは由紀もたまったものではないと思う。

 これだから、台所に上がるのは嫌なのだ。

 台所には本家の隣家、五軒の女達が集まっている。細田のばあさんがリーダー格だ。隣家の一番だし、細田のばあさんの父親が武朗の母静江といとこ同士だったのだ。細田のばあさん自身はもう八十を超えている。取り囲む女達も多かれ少なかれ、互いに血縁がある。

「洋子さんもの」

 紗江ははっと聞き耳を立てた。

 話題が洋子にうつった。隣家の女達は洋子を決して本家さんとは呼ばない。

「おいしゅうないの。あら炊いたら、かっちかちにして」

「あの人は山の出じゃけえ。真っ白になるまで塩をまぶしちょったよ」

「あれじゃあ、うもうないよのう。今日そこで釣った魚で。さっと洗うだけでええのに」

「送りの魚で育った人間にはあれがおいしいんじゃろ。海の方のは生臭うて口に合わんのよ」

「でも、そうすると本家さんの口には合わんよの」

 そこから、洋子の料理がまずかったから武朗が浮気をするという話へと進んでいく。これも毎度のことだ。

 紗江は井戸水で真っ赤に腫れた手を見つめた。洋子の手を思いだす。洋子の手は土臭かった。爪の奥まで泥が入り込んで、皺の線まで黒くなっていた。

 洋子の実家は山持ちで材木を売って財を成したと聞いている。戦後、時代の流れの中で洋子の実家は没落してしまったのだろう。悠太朗が生まれて以来、洋子が実家に帰ることはなかったらしい。洋子の口から実家の話を聞くこともなかった。

 それでも、と紗江は思う。

 洋子は死ぬまでその身に山の名残をとどめていたのだと思う。だから、島の女達とは相いれなかったのだ。

 紗江は勝手口を入ってすぐの場所にごぼうを置き、誰かに気付かれる前に座敷に逃げた。座敷ではちょうど母親が拭き掃除を終えたところだった。紗江は干しておいた座布団を取りに庭に下りた。縁側から座敷と庭を行ったり来たりしていると、母親が腰を叩きながらふと思いついたように言った。

「あんた、後でエプロンにアイロンかけときんさいよ」

「分かっとる」

「明日はその髪もまとめんさいよ。うっとうしいけえ」

「いつもちゃんとしてるじゃん」

「そうじゃったかいね」

「それよりばあちゃんは?」

「どっかにおるじゃろうけど。どうしたん?」

「細田のおばあちゃんがそろそろ味みてほしいって」

「それはばあちゃんじゃないと無理だわ。探してき」

 祖母は門の外にいた。

 海からの冷たい風を受けとめるようにして、祖母は立っていた。

「ばあちゃん、細田さんが呼んどるよ」

 紗江は祖母の横に立った。

「ばあちゃん?」 

 祖母は本家を見上げていた。

「ばあちゃんが生まれた家なんよ」

「知っとるよ」

「母屋が傾いとるんの、気づいとったか」

「戸、ちゃんと閉まらんもんね。もうがたがきとるんよ。ずっと手え入れてなかったけえ」

 そして、この母屋がまっすぐになることはもうない。香は壊すと言っているのだから。

「紗江は、わしの孫なのに何も知らんの」

「えっ?」

「母屋が傾ているのはピカのせいよ。爆風が海を超えて、ここまできたんじゃけえ」

「ここまで?」

 初めて聞く話だった。紗江は驚いて母屋を見上げた。

「あの風にも耐えた家なのに壊すなんて、最近の若いもんが考えることはようわからん。わからんけど、仕方ないことかねえ。わしは嫁に出た身じゃし、本家のことに口出すなって母ちゃんに言われたし」

 祖母は背筋を丸めて、門に歩き出した。

 台所では細田のばあさんが祖母を待ちかまえていた。

「味付けだけは千江ちゃんにしてもらわんと」

 祖母はうれしそうにほっほっと笑いながら、醤油の一升瓶をコンロの高さまで持ち上げた。

 祖母が鍋ごとに調味料の量を決めているということまでは紗江にも見当がついている。だが、具体的にどういう見当で味をつけているのかは分からない。知っているのは祖母だけで、母親に伝授された様子もない。

 

 翌日の法事はお経が終わった直後から、宴会と化した。客は親戚だけで三十人。親戚以外は弁当を受け取ると早々に帰っていく。親戚以外であとに残ったのは、武朗と格別の付き合いがあった島の人達だ。二十人ほどいる。ほとんどが武朗と同世代のじいさんか、代理で来たその息子、孫たちだ。

 葬式以来の喪服姿の香はビール瓶を持って、空いたグラスに注いで回っている。ひたすら接待に徹していた。愛想笑いが板についている。相手の素性もろくに知らないくせに、香はじいさん達と二、三言言葉を交わしては相手の笑いを誘い、場を和ませていた。こんなときには香の話しだしたら止まらない性格が役に立つ。ただ、相手にはほとんど伝わっていないようだが。会話術に難ありの香と耳が遠く入歯が外れそうなじいさん達の会話は聞いているこっちが頭が痛くなってくる。耳栓を用意しておけばよかったと思った。

 法事で出た弁当はそのまま家に持って帰るという悪しき習慣が島にはある。じいさんが持って帰った弁当がその家の夕食になるのだ。弁当を食べないから、別に食べるものが必要になる。ここをけちると後でどんな悪口を叩かれるか分からない。法事に肉、魚はご法度なんて決まりは遠い昔のこと。座敷のテーブルには刺身や寿司が並ぶ。はっすんや白和えは一人ずつ盛りつけて出す。

 紗江は母親の指図で料理を出したり、皿を引っ込めたり、台所と座敷の間を行ったり来たり、もう何往復したか分からない。目が回りそうだ。

 あと何時間続くのか。いつまで飲むつもりなのか。

 紗江は座敷に並ぶ赤く染まった禿頭をお盆で叩いてしまいたいのをぐっと抑え、香に負けない愛想笑いを貼り付ける。だが、香にはバレていた。すれ違いざま両手に二本ずつ空き瓶をぶら下げた香に「目、座っているぞ。おー怖」と耳打ちされた。紗江は空いたお盆で香の尻を叩いた。

 法事の片付けが終わったときは九時を回っていた。最後に香と父親が本家から瀬田家までお椀や食器を入れた箱を運ぶ。蔵が火事で燃えてしまったから、今日は瀬田家のものを使ったのだ。紗江は両親の背中を見ながら、香と並んで歩いた。

 やっと二人きりになれた。

 昼間にしこたま酒を飲んだ香は、眼鏡の奥の目つきは少しおかしいが、足元はしっかりしていた。頭の方は……だけど、かえってこのくらいの方がよいかもしれない。酔いがショックを和らいでくれるだろうから。ただ、香が紗江の話を聞いた後、香の両腕の中にある食器たちが無事でいてくれるかどうかは分からない。

 紗江は翔平と三神島に行ったことを告げた。

「三神島に?」

 香は訝しそうに眉をひそめた。