実が落ちる前に

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現在⑦-5 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 法事の翌日、紗江はいつもよりも遅く起きた。昨晩は、体は疲れて切っているのに、脳みそは興奮したまま、そのギャップでなかなか寝付けなかったのだ。

 紗江は起きた後も、しばらくベッドの上でぼーっとしていた。今朝は血圧も上がらない。火事以降、非日常的な出来事続きで、普段、十年一日のごとく平坦な毎日を送っている紗江の心身は疲れきっていたのだ。

 顔を洗って、キッチンへ。両親の姿はもうない。代わりに、どこからやってきたのか、大きなタコが金盥の中に入っていた。冷蔵庫には新しいメモ書きが……この大ダコを茹でておけという母親からの指令だった。

 食欲はない。コーヒーを胃袋に流し込みながら、香はもう警察に行ったのか、今朝はちゃんと起きたのだろうか、とちらりと思った

 大鍋にお湯を沸かす間に、タコを塩もみする。ぬるぬるとした表面がキュッキュッとなるまで、紗江は吸盤を一つ一つ丁寧に指でもんでいった。

 島に住んでいると、潮風の香りに気付かないが、タコからの強烈な潮の香りにはさすがに気づく。それは、紗江に三神島のことを思い出させた。

 三神島で見つけた悠太朗のお守り……

 お湯が沸いたら、タコを足から入れる。かたくなりすぎないように、時計の秒針を見ながら出したり入れたり、最後にお湯の中にどぼんとつけて九十秒。お湯からザルにタコを引き上げた。菜箸の先で一番太い足をつつき、火の通り具合を確認したとき、紗江は見落としていたことに気が付いた。

思わず「あっ」と叫ぶ。菜箸が床に落ちる。

 どうしてこのタイミングで気づいたのか、いや、むしろどうして今まで誰も気づかなかったのか。

 三神島に悠太朗のお守りが落ちていたということは、悠太朗は三神島に行ったということだ。洋子が埋まっていなくてもお守りが出てきた時点で、あの夜、悠太朗が三神島に行ったことは確実、あの日以降に悠太朗が三神島に行くことはできないのだから。

 やっぱり悠太朗にはアリバイがあったのだ。

 どうして香はそのことを指摘しないのか。気付いていないのか。

 悠太朗があの事件の日以前に三神島に行き、お守りを落としたという可能性も……

 いや、それはない。なぜなら紗江は事件が起きた日、悠太朗にお守りを見せてもらったのだから。

 紗江は「うん?」と首を傾げた。

 何だ、この自信は。紗江は記憶力に自信のある方ではない。あの日、学校で沙紀とどんな会話をしたのか、別れ際、何と言って別れたのかも思い出せないくらいだ。それなのに、悠太朗からお守りを見せてもらったなんて、どうでもいいことをどうしてこうも確信をもって断言できるのか。しかも絵としては、全く頭に浮かんでこない。ただ、悠太朗にお守りを見せてもらったという確信がぽんと頭に浮かんで……。

 紗江は「あっ」と叫んだ。

 紗江は割烹着をつけたまま、二階に駆け上がった。自分の部屋の押入れに飛びつく。引き出し式の衣装ケース、一番下の引き出し、高校と中学校の制服のさらにその奥。

 紗江は古いクッキーの缶を見つけた。蓋を開ける。

「あった」

 翔平と二人で三神島に行ったとき、香と三人で三神島に行ったとき、いや、もっと前、香が島に帰ってきた日から喉元に感じてきた引っかかり。何度も頭の中をかすめたのに捕まえることができなかったしっぽを紗江はやっとつかんだのだ。

 缶の中で保管していたため、それほど古びたり色あせてはいなかった。紗江は悠太朗からもらった朱色のお守りを手に持った。

(あのバカには効き目はないだろうから、紗江ちゃんにあげよう)

 そういって、悠太朗は車の鍵からお守りを外し、紗江の手に載せたのだ。事件の日の夕方、悠太朗はフェリーから下りてきたところで、学校帰りの紗江を家の前までのせていってくれたのだ。あの日は雨だったから。

 こんな大切なことをどうして忘れていたのだろう。

 記憶から消していたのだ。悠太朗が犯人だと、大人たちが言うから、でも紗江はそれをどうしても納得することができなかった。紗江はあの日の夕方、悠太朗と会っていた。言葉も交わした。悠太朗は普段と同じように優しかった。

 納得できないけど考え続けるのはしんどかった。だから紗江は忘れることにした。

 紗江は引き出しから三神島のお守りを取り出した。机の上に二つのお守りを並べる。よく見ようと、悠太朗のお守りを手に取り、机に置いた三神島のお守りと見比べてみた。見た目は同じ、どちらも防府天満宮のお守りだ。朱色の布地で「学業成就」の刺繍。

 悠太朗のお守りは紗江が持っていた。じゃあ、この三神島のお守りは何なのだ。

 紗江の頭の中で不安が膨らんでいく。

 そのとき、紗江は二つのお守りの小さな違いに気付いた。干支だ。刺繍されている干支が違う。悠太朗のお守りの干支は卯年、三神島のお守りは申年……申年といえば、そういえば今年がそうだ。

 そう思って三神島のお守りを見てみると、たしかに泥で汚れてはいるけれど、新しいもののような気がしてきた。色褪せていないし、端っこが擦り切れたりもしていない。

 最近、三神島に行った誰かが落としたもの? 紗江らの前に三神島に行った人がいたのか。

 祖母だろうかと一瞬思ったが、祖母にはお守りを持ち歩く習慣はない。祖母は買うのが専門で買ってきたお守りは全て悠太朗にくれていた。悠太朗が死んだ後は、神社仏閣に参拝に行くことはあってもお守りは買わなくなった。それに神社仏閣巡りもここ十年は行っていない。最初のガンが発覚して以来、島の外へ出かけることもしなくなっていたのだから。だから、祖母が防府天満宮の新しいお守りを持っているはずがない。誰かがお土産で祖母に渡すにしても、今更学業成就のお守りではないだろう。

 祖母でないという結論を得たことで、紗江はますます困惑した。

 祖母でない誰かが祖母の目を盗んで、三神島に行った? そしてこのお守りを墓の前に埋めた。新しいお守りなのだから、長い時間をかけてお守りの上に砂や土が堆積したわけではない。誰かが埋めて、、そして……。

 わざと紗江に見つけさせた。

 紗江は唾を飲みこんだ。

 そんなことをするのは彼しかいない。でも、どうしてそんなことを? 

 疑問符が頭を覆い尽くす。シャベルのこと、墓に供える花の数、香が島に帰ってから今日までの様々なこと。そのために、紗江の耳は塞がれたも同然になっていた。

 不意に肩を叩かれて、紗江は思わず「ひっ」と叫び、椅子から飛びあがった。振り向くと、祖母が立っていた。

「ば、ばあちゃん。驚かさんといて」

「何度も呼んだわ。それより、それ何じゃ」

 しまったと思った。紗江は嘘や隠し事が苦手、考えるよりも先に口が動いてしまう。それも、まずいことから順番に。机の上に出ていたのは三神島で拾った方のお守り、悠太朗のお守りは紗江の手の中で、祖母の目には見えない。

「三神島で拾ったんよ」

「紗江、三神島に行ったんか」

 祖母の声が幾分、険しくなる。

「そこで、それを見つけたんか」

 叱られるとは思っていたが、予想以上の祖母の剣幕に紗江はおどおどと戸惑い、頷いた。

「墓を掘ったら出てきた」

「墓を掘った」

 祖母の語尾がひっくり返る。祖母の反応に驚きつつも、頭の片隅で、墓を掘ったといえばそりゃあ、誰だって驚くよなとも思った。だから、これ以上祖母に叱られないように、

「香が掘りたいいうたから」

 と、墓掘りの責任を香にかぶせる。実際に掘り返したのは紗江と翔平だが、言い出したのが香だったし、このお守りを掘り返したのも彼だ。

 祖母の血圧がまた一段上がるだろうと予想していた。だが、予想に反して祖母の白い顔に変化はなかった。

「ほうか。あの子が墓を」

 それ以上何も言わず、紗江が恐れていた雷も落とさず、祖母はくるりと体の向きを変えると、そのまま紗江の部屋から出て行ってしまった。紗江は祖母の背中を見送りながら、祖母もそろそろかなとぼんやりと思った。以前の祖母なら雷を落とすことを忘れたりしない。気力か認知能力か、体力なのか、明らかに祖母は衰えている。

 蔵が燃えてしまったからかもしれない。

 祖母のエネルギーの源はいつだって、本家の誇りだったのだから。