実が落ちる前に

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過去⑦ 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 武朗の上でだけ時間が止まっているような気がしている。最近は発作は起きていない。目に見えて衰えもせず、弱ることもなく、新たなしわやシミが増えるわけでもない。

 この男は、このままこの先何年、何十年、もしかしたら永遠に生き続けるのではなかろうかと思う。生きているのか死んでいるのか分からない姿を保ちながら、決して朽ちることはない。

 香は武朗の部屋で夜を過ごす。そうすると、二時間おきに自然と目が覚める。くるまっていた毛布から這い出て、武朗のいびきを聞き彼の呼吸がまだ続いていることを確かめ、必要があればおむつを替え、また毛布を体に巻きつける。寒くはないけれど、なぜか歯の根が合わない。

 しばらくすると、体の震えはおさまる。うつらうつらし始めると、さっき見ていた夢の続きが襲ってくる。近頃は毎日同じ夢を見る。香は頭まで毛布の中に潜りこみ、足を胸に抱き寄せた。

 紫の顔の火傷は治ったのだろうか。

 香は毛布の中の暗闇で目を開いた。

 頭の片隅、冷静な自分が香に問いかける。

 十年やそこらで二度も火事に遭うなんて、偶然なのか。

 一度目の火事の犯人は分かっていると思う、香が考えている通りであるのなら、の話だが。では二度目は? 警察や消防の捜査で放火だということは分かったけれど、犯人は捕まっていない。通り魔的犯行ではないかと言われていたが、本当にそうなのか。

 二度の火事を無関係の事件と、全く切り離して別々の事柄と考えてもよいのか。

 香は自問自答する。なるべく客観的に考えるのだ、他人事として……偶然なのか、必然なのか。

(二度だぞ)

 自分にそう言い聞かせる。

 何度も繰り返すうちに、頭の中はそれで覆い尽くされる。途中から、自分にかわり紫が香の肩を前後に揺すっていた。(分かっているの、この疫病神)

 答えが出たとき、香は肩で息をしていた。汗で全身が濡れていた。香は毛布から這い出て、背中や太腿に貼り付くスウェットの生地を剥がしていった。壁際の時計を見ると、きっかり二時間、あと一時間で朝が来る。

 答えは出た……そして、自分がたどりついた答えはきっと当たっている。

 香は胡坐の両膝を掌で撫でながら、迷い続ける。

 あの火事は俺のせいだったと、紫に土下座すべきか、紫に刺されるのを覚悟で。

 刺されるのは嫌だなあと思う。

 じゃあ、放火犯を捕まえるか。こいつが犯人だと、紫の前に引きずり出すか。

 先日買ったお守りはコートのポケットに入ったままだ。あれを買ったときは、紫のことまで考えていたわけではなかった。自分の気持ちがおさまればそれでいい、今更、警察沙汰も気が進まないし、潔白だの冤罪だのという話は身内でやればそれでいいと思っていた。だから、いつか島に帰りたいと思ったのだ。半分は感傷、半分は印籠を懐に入れた水戸黄門のつもりで。  

 だが、紫のことを考えると、紫の気持ちを晴らすためには、そうは言っていられない。

 夜が明けてくる。それなのに香の目の前は次第に暗くなる。

 自分には何かが足りないとずっと思っていた。足りない何か、空白を吹き抜ける風が体から、心から熱を奪っていくのだと思っていた。

 足りないもの……今、自分が欲しいものは恨みつらみ、怨恨、復讐心……自分の背中を押してくれる強い気持ち。だが、もう一人の自分は冷めた目で香を見ている。ずっと探していたものはそんなものではないくせに、と。

 空が白み、朝が来る。新しい一日が始まる。

 香は重い腰を上げた。そのとき、電話が鳴った。

 固定電話のディスプレイを見る。市外局番を見ただけで分かる懐かしいナンバー、香は息を吸い受話器を取った。

「もしもし」

「香か。わしだ、瀬田だ。久しぶりだの、元気にしとったか」

「ええ」

 瀬田の伯父は、それからひとしきり、この電話番号を調べるのにどれだけ苦労したのかを語った。それを聞きながら、そういえば伯父の家を出たことや武朗を引き取ったことを彼らに伝えていなかったことを思い出した。うっかり忘れていたのと、あとは紫に居所を知られたくないという自己防衛のせいだ。だから、ほとんど誰にも知らせずここに越してきた。

 伯父は武朗が入院していた施設からこの電話番号を聞いたと言った。親族、身内だから施設は教えたのだろう。

 伯父は水臭いだの援助するだの、どうのこうの言っているが香は半分聞き流していた。伯父は一体何のために電話をしてきたのだろうと思っていたが、「ところで」と伯父が声を潜めたとき、香はここからが本題なのだなと気付く。しかし、こちらの電話番号まで調べて彼が連絡をよこすような用件に心当たりはない。

「うちのばあさんのことなんじゃがな」

 息が止まる。香は受話器を握りかえた。

「もう長くないようじゃ。あと一年……もつかどうか。そういうことじゃけえ、そういうつもりでいてほしい。そんときには、色々相談したいこともあるし、そっちのことも含めてな」

「こっちのこと?」

「じいさんのことよ。一人じゃ無理じゃろ」

 香はその後、二、三言交わしてから、受話器を置いた。

 香は武朗が眠る部屋に入った。

 武朗のいびきが聞こえる。香は後ろ手で部屋の扉を閉めた。