実が落ちる前に

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現在⑧ 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 夕方、家の前を香が通りかかった。警察からの帰りだ。紗江は走って彼を追いかける。紗江に気付くと、彼は立ち止まり、紗江が追いつくのを待ってくれた。

「警察はどうだった?」

「こってり絞られた」

 香は情けなさそうな顔をして言った。

「香、酒臭い」

「二日酔い。今朝から頭はがんがんするし、警察は耳元でぎゃんぎゃん言うし」

「でも、もう夕方よ。昨日、どんだけ飲んだのよ」

「途中から記憶がないな。あの、底なしじじいに付き合っていたらとんだ目に」

 満井のおじさんだ。島のあらゆる集会に顔を出し、酒の最後の一滴を腹におさめるまでてこでも動かない。彼のせいで一体何人、救急車で運ばれたか。あのじいさんが死ぬのが早いか、犠牲者が出るのが先か。

 次の角を曲がると本家の門が見える。

 お守りのことを訊かなきゃ。

「あのお守りのことだけど」

 少し前を歩いていた香が紗江を振り返る。

「あれ、誰かに見せた?」

 尋ねるつもりが、逆に問われる。

「えっ、ああ、うん。ばあちゃんに」

 言いながら、そういえばこの前も同じことを尋ねられたなと思った。

「ばあさんに……そっか」

「その、お守りのことだけど、あれってもしかして香が」

「紗江は本当にこの島から出て行くつもりはないの?」

 一瞬、紗江の足が止まりかけるが、ぎこちなく次の一歩を踏み出す。見えない手が紗江の背中を押している。

「どうしてそんなことを言うん?」

「どうなのかなあと思って。紗江、この島でもやることなさそうだし」

 何もせず、ふらふらと……いや、ふらふらとしているのならまだましなのかもしれない。紗江はじっとしているだけだ。何事も起きないことを祈りながら、それでいて何かが起こることを期待しながら。

「ここが私の居場所じゃもん。何もないけど、でも、よそだって同じじゃろ」

「行ってみなきゃわからない。同じかどうか、紗江自身の目で見てみないと。ここよりも良いところがあるかもよ」

 言葉でこそそう言うが、「あるに決まっている」と断定する声音だった。それが紗江の神経を逆なでする。紗江は立ち止まった。

「どうして、そんなふうにここを悪く言うの。そりゃあ、香にとってはここは嫌な思い出が詰まった場所かもしれんけど、私にとっては違う。私はこの島が好きなの」

 紗江は言いながら、無意識のうちに握りしめた両の拳を太腿に打ち付けていた。香はその紗江の手首を掴んだ。紗江ははっと顔を上げた。

「紗江にとってここは楽園?」

 香の目がまっすぐ紗江を見ている。紗江は睨み返したかったが、なぜか視線を逸らしてしまった。

 香はぱっと紗江の手首を離した。紗江の両手はだらんと下に落ちた。

「そりゃあ、そっか。ここにいる限り、紗江は瀬田のお嬢さんだもんな。居心地がよすぎて、出て行く気にはなれないか」

 香はこの前と同じことを言った。紗江が言ってほしくないことだと知っているくせに、香は繰り返し繰り返し、紗江の胸に針を刺す。

 視界がゆがんだ。なぜと思う間もなく、紗江の下まぶたがかっと熱くなる。だが、香は紗江の涙に気付かない。

「でも、本当は出て行きたいんじゃないの? 今でさえここでやりたいことがないのに、あと六十年、ここで何をして過ごすつもり?」

 何をして……目の前が暗くなる。

「ここには紗江が望むものは何もない。ここから出て行かないと、紗江は一歩も前に進めない」

「どうして香にそんなことを言われんといけんの。分かったふうな口をきかんで」

「分かるよ、そのくらい。俺が一番よく分かっている。それに紗江だって分かっているんだろ。この島が狭くてちっぽけで、住んでいる人間は時代遅れだし、楽しいことも刺激も何もない、つまらない島だってこ……」

 乾いた音がした。まるで他人事のように紗江の耳はそれを聞いていた。だが香の頬を叩いたのは紗江の右手だった。

 紗江は呆然と自分の赤くなった手のひらを見つめた。人を殴ったことなんて一度もない。

 手首を掴まれる。

 仕返しをされる……紗江はとっさに左手で顔を庇った。

 だが予想した痛みはついになかった。掴まれた手首も解放される。おそるおそる目を開けると同時に、香の「いった」という呟き声が聞こえてきた。

「ごめんなさい」

「いや、いいよ」

 紗江は次の言葉を迷ったが、香の赤くなった頬を見ると言わずにいることはできなかった。

「殴って。それでおあいこ」

 香は目を丸くしてから、ぷっと噴き出して笑った。

「おあいこじゃないよ。俺は男だし、紗江は女だもの。女に殴られるのと、男が殴るのじゃあ、おあいこじゃないでしょ」

 紗江はむっとして、

「優しいんだね。こんなときだけ女扱いしてくれるなんて思わなかったからびっくりしたわ。でも、香と私じゃあ、変わらないじゃん」

 言いながら、香の手首や腕を見る。太さは紗江と変わらない。紗江より手の甲や指が少し筋張っているだけ、手首に浮く骨や肘の骨がごつごつしているだけ。

「まあまあ、そう言わず、こういうときは男を立てておくものだ。それに俺だって、女の顔を殴る趣味はないし。紗江のかわいい顔を殴ったりしたら、一生後悔する」

 嫌味なのかそうじゃないのか……紗江の耳には嫌味にしか聞こえないけれど、視界の香はとても優しい顔だ。

 香が紗江の手首を掴む。痛い、紗江はとっさに手を引こうとしたが、びくとも動かなかった。香は紗江の手首を離さない。どころか、なぜか紗江を抱きしめた。鼻に香の鎖骨が当たっている。アルコールとそれよりも強い煙草の残り香に紗江は頭の芯がしびれた。額に香の頭の重みを感じる。

「この強気があれば、どこへだって行けるのに、どうして紗江はこんなに臆病なんだろうな」

 粗暴だって言いたいのか、それとも内弁慶だとでも? 皮肉や言い返したいことは色々浮かぶが香の腕の中では一言も声に出せない。

「強くなってよ……紗江ならできるよ」

 香の体が紗江から離れるとき、香の手が紗江の手をぽんっと軽く叩いた。前に踏み出せと促している、紗江は香の手に押されて、たたらを踏むように足が一歩前に出た。

 香の背中が遠くなっていく。

 追いかけたいのに、足が動かなかった。一歩前に踏み出した、自分のタイミングでない、背中を押されての一歩だったけど、一歩は一歩、紗江にとってはたしかな前進だった。

 大仕事を成し遂げたような気持ちで紗江は半ば虚脱していた。香の背中が見えなくなったとき、紗江は我に返った。訊きたかったことの半分もまだ訊いていないことも思いだす。紗江は駆けだした。角を曲がると、本家の門が見える。香はまだ門の手前だった。

 彼の名前を呼びかけようと息を吸ったとき、紗江は不思議な光景を見た。

 門扉の影から祖母がぬっと出てきたのだ。

 香の足が止まる。祖母に気付いたのだ。

 そのときだった。

 祖母の小さな身体はゴム鞠のように跳ねた。そして、次の瞬間、祖母は香の懐に飛び込んでいた。

 二人はしばらく揉み合っているように見えた。

 香の手が祖母の身体を押す。突き飛ばされた祖母は地面にひっくり返った。

「ばあちゃん」

 祖母に駆け寄る紗江の前で、香が膝から崩れるように倒れた。地面に突っ伏したまま、両手で腹を押さえている。

「ひ、ひ、ひ」

 突然聞こえてきたのは獣じみた耳障りな声だった。振り向いてこの目で確かめるまで、紗江はそれが祖母の喉から発せられているとは思いもよらなかった。

「渡さねえよ、一銭たりとも、あの女の息子なんかに。死ね、死ね、死ね」

 祖母の右手には包丁が握られていた。包丁の刃は血で汚れている。

 紗江は血の気が引いた。こんなのは嘘だ。恐る恐る香りを見る。香の背中は激しく上下していた。

「ばあちゃん、やめて」

 祖母の体が地面から躍動しようとしたとき、紗江は二人の間に自分の身を入れるために動き始めていた。が、祖母の身のこなしの方がはやかった。祖母は紗江を置き去りにすると、一ッ跳びで倒れている香に飛びかかろうとした。

「あっ、馬鹿」

 香の声。

 紗江ははっと身体を反転させて祖母の背中に組みついた。

 祖母が暴れる。包丁の刃先が紗江の額を掠める。それでも紗江は羽交い絞めにした腕を緩めなかった。次第に祖母の動きは緩慢になり、やがて電池が切れたように止まった。その瞬間、紗江の腕に祖母の全体重がかかり、紗江は尻餅をついた。背後から祖母の顔を覗き込むと、祖母は両眼をきつく閉じていた。

 香が這うようにして紗江に近づくと、祖母の手から包丁を奪い、紗江の背後、門の内側に投げた。そして、そのまま地面に顔をつけた。香の両手は血で真っ赤に汚れていた。