実が落ちる前に

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過去⑧ 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

 聞き慣れた音がすっぽり抜け落ちた部屋の中で、香は自分の呼吸の音だけを聞いていた。

 夜は深まり、もう朝が近い。

 香は武朗のベッドを背にして、床にあぐらで座っている。座っている? いや、へたり込んだまま、立ち上がれないでいる。

 素足の指先に手をやる。青紫色の指先は氷のように冷たい。血が通っていないようだ。

 少し手を伸ばせば煙草とライターに手が届く。しかし、その気力も今の香には残っていなかった。

 脱力したままぼんやり、天井と壁の間を見つめていた。

 顔を斜め上に向ける。すると後頭部がベッドに載る。ちょうどベッドのへりを枕にしている状態、ふと後頭部にシーツ以外の感触を覚える。

 ぎょっとして頭を持ち上げた。振り向き確かめると、武朗の指先だった。関節が軽く曲がり丸まった指は、水分が抜け骨と皮だけ、触れるとひんやり冷たかった。まるでさっき触った足の指のよう……冷え切って、部屋と同じ温度になっている。

 香は武朗の手を布団の中に入れてやった。そして、最後の力を振り絞り立ち上がる。武朗の乱れた布団を直してやるために。

 武朗の顔から顔を上げる。カーテンの隙間、窓からさし込む朝日のまぶしさに目を細める。

 新しい朝だ。暗いトンネルを抜けたその先……自分はたどり着いたのか。

 トンネルというよりも、深い井戸の底から見上げているような気分だな。

 香は自嘲した。

 そのとき、電話が鳴った。

 こんな朝早くに誰だろう。

 瀬田の伯父だろうかと一瞬思ったが、彼ならこんな非常識な時間に電話してくるわけがないが……。

 まさか、ばあさんが死んだんじゃないだろうか。

 そうだとしたら最悪……そんなことは考えたくもない。

 他に自分の電話してきそうな人間は……。

 もしかして紫? まさかと思う一方で、すんなり納得する自分もいる。

考えてみたら、恵理に接触する紫がこれまで自分に接触しようとしてこなかった方が妙なのだ。

 電話の音は一度切れたが、間髪入れず、またすぐになり始めた。香は受話器をとる。

「もしもし」

 案に相違して、受話器の向こうから聞こえてきたのは男の声だった。ほっとしたのもつかの間、彼は思いがけないことを口にした。

「遺体の身元確認をお願いします。その後、事情聴取も、何せ血縁者はあなたしかいないようなので……」

 警察官はまだ何かしゃべり続けているが、香の耳には一切入ってこなかった。

 遺体の身元確認……ああ、そうか。骨だ、すっかり忘れていた。洋子の骨を引き取れという話……。