実が落ちる前に

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エピローグ① 御枷島(おとぎじま)野口歩 ブログ小説web小説

「香が島を出て行けって言ったのは」

 紗江が話しかけると、香は仏壇からゆっくりと振り向いた。正座を崩し、胡坐に座りなおす。このシーンは前にも一度見たような気がしたが、もう遠い昔のように思えた。

 紗江はまだ慣れないショートカットの後ろ髪に手をやった。うなじを風が撫でる。

「こうなることが分かっていたから。だから私に強くなれって言ったのね」

 それは香の優しさと受け止めるべきなのだろう。素直に頷く気にはなれないが、彼の顔をまっすぐ見つめるための気持ちの整理はつけることができた。

 今日、香は退院した。

退院の予定は事前に聞いていた。島には帰らずそのままどこかに行ってしまうのだろうと思っていたが、香はここに帰ってきた。

「でも、結局島を出ないんだろ」

「今は父さんの会社で働いているの。まだ大変だけど、何とか持ちこたえそう。皆、陰では色々言っているんだろうけど、私の耳には入ってこないから。母さんも最近は少し元気になってくれた」

「なんか、紗江、図太くなったな」

「それ誉めてんの、貶してんの」

「誉めてる、誉めてる。というか、安心した。落ち込んで、今にも死にそうな顔をしているのかと思ってた。俺が慰めてやらなきゃいけないかなと」

 紗江の様子を見にここに帰ってきたのだろうか。

 紗江はわざとあごを上げた。

「香にだけは心配されたくない」

「そりゃ、そうだ」

 香は膝を叩きながら、おかしそうに笑った。

 顔見知りの野良猫が縁側に飛び乗って座敷に入ってくる。一ヶ月も閉め切っていたせいで、猫が歩く度に畳の埃が舞い上がった。埃が陽光に反射してきらきらと光る。

「何ていって慰めてくれるつもりだったん?」

「人間、意外といけるもんだって」

「意外と……ね」

 それはこの頃、紗江が実感し始めたことだ。

 祖母が捕まったとき、心が大きく乱れた。母も自分ももう立ち直れないだろうと思った。追い討ちをかけるように、祖母の死が告げられた。それでも朝起きれば腹が減っているし、家事をこなさなければ家の中が回っていかないし、回覧板が来れば隣の家に持っていかなければいけない。日常の風景はたしかに変わった。だが意外にも日々やっていくことは変わらなかった。変わったことといえば朝、紗江が父親と一緒に家を出るようになったことだけだ。

 一日が終わると、その日を振り返って驚く自分がいた。あんなことがあったのに、今日も無事終わってしまったと。それも最近は、あまり思わない。このままの日々を続ければ大丈夫という見通しが立ってきたからだろう。

 香の視線が上がった。紗江も香の視線を辿って背後に顔に顔を向ける。

「香はいつ気づいたん? 二人が本当の親子だって」

「うーん、いつだろ。最初はじいちゃんを引き取ったときかな。施設から持って帰った荷物の中に家族写真が一枚だけあったんだ。親子三人の写真。火事で全部焼けちゃったから、俺は家族写真を一枚も持っていなかった。久しぶりにばあちゃんと父さんの顔を見たんだ。子供の頃は全然そんなふうに思わなかったけど、大人になってから改めて見ると父さんとばあちゃんそっくりなの。並べてみると、これが親子じゃないなんて信じられないくらい。こんなことを言ったら薄情かもしれないけど、俺、父さん達の顔をほとんど忘れていたみたい。事件前に、周りの人間が気づかなかったのも不思議っちゃあ不思議だけど、血が繋がっていないっていう先入観のせいだろうね」

 改めて遺影を見た。並んだ遺影も紗江達を見下ろしている。沙紀の遺影が一番右端でその隣に武朗、洋子の遺影が飾られることはおそらくない。

「二年前に見つかった白骨死体な」

 紗江は香の顔に視線を戻す。

「あのとき、DNA鑑定をしたんだ」

「白骨死体との?」

「いや、じいちゃんとの。この際だからはっきりさせとこうと思って」

 香の言う意味が分からず首を傾げた紗江を見て、香は髪を掻いた。

「父さんがお宅のばあさんの子だったら、俺とじいちゃんの間には血縁関係があるはずだろ。DNA鑑定で、俺とじいちゃんの間に血縁関係がないと分かったら、父さんは少なくともお宅のばあさんの子ではないということじゃん。お宅のばあさんの子じゃないのなら、ばあちゃんの子なんだし、それならDNA鑑定で俺と白骨死体の血縁関係を調べれば、白骨死体がばあちゃんだと特定できる」

 ここまで言うと、香は突然ぷっと噴き出すように笑った。

「で、肝心の鑑定結果が出るとね、人間不思議なもので、予想していた結果なのに、頭が真っ白になっちゃうの。もう、へなへなって腰が抜けちゃって。空想が現実になった、これはえらいこっちゃって。ショックでショックで、警察に電話する気もなくなっちゃうくらい。で、あれこれ考えているうちにね、DNA鑑定だけでは不十分だってことに気付いた」

「不十分?」

「DNA鑑定で分かるのは、お宅のばあさんと父さんは血が繋がっていないということまで、父さんとばあちゃんの血縁関係の証明にはならないじゃん。白骨死体と俺に血縁関係があると分かってもさ、たとえば、俺の叔母とかいとこの骨という可能性もあるわけで、いや単なる可能性の話だからね、俺には行方知れずの血縁者はばあちゃんしかいない……はず。俺の知る限りは、だけど。父さんの骨と白骨死体のDNA鑑定をしようかとも思ったけど、火葬した骨はDNA鑑定できないんだと。父さんなんか二度も焼かれちゃっているからね、これはもうDNA鑑定は無理なんだろうな、と。となると、事情を知っている人の口を割らせるしかない。今生きている中で事情を知っていそうなのは」

「ばあちゃんだけ、だね」

 そのために、香は島に帰ってきたのだ。

「まあ、ここに帰る前に白骨死体が男性だってことは分かったから、どうしたものかなあとけっこう悩んだよ。でも乗りかかった船だし」

 最後の証人、祖母も先が長くないし……か。文字通り、真実を知る最後のチャンス。香にとって白骨死体が洋子かどうかなんて、もはやどうでもよかったのだろう。紗江の前ではそうは言わないけど、白骨死体は単なる口実、実際は悠太朗の冤罪を晴らすために帰ってきたのだ。

「どうしてじいちゃんがばあちゃんと離縁しなかったか」

「えっ?」

「子ができないって言って嫁を返して、新しくきた嫁でまた子ができなかったら、もう決定的だもんな。実際、嫁よりも付き合いの長い愛人との間にも子ができなかったんだから。実のところ、自分に原因があるって分かっていたんだろ」

 祖母は死ぬ間際に亡夫の名を繰り返した。洋子の相手は祖父の雄司だったのだ。雄司に騙された、と。祖母は祖父を恨みながら死んだ。生前の祖父は祖母の言いなりだった。祖母が銀行を辞めろといえば、支店長にまでなった職場を去った。祖父が入り婿だからと思っていたが、本当は罪悪感があったからだろう。

 香は顔をしかめた。

「うまずめだと思って強姦したって話だろ。じいちゃんは愛人のところに入り浸りで、ばあちゃんは一人だったんだから、やっちゃうこと自体は簡単か。お前んとこのじいさん、妊娠の話聞いて、泡食っただろうな。しかも、自分とこも同じタイミングで妊娠しちゃって、男だったら養子になんて話も持ち上がって。ばあちゃんはばあちゃんでじいちゃんとはもう長い間何もないのに、妊娠なんて、どう考えてもまずいよなあ。初めはショックだっただろうね。すぐ立ち直ったみたいだけど。うまくやったもんだよな。入れ替えた後も、ずっと演技を続けて父さんにさえ何も告げず。これも全部我が子に本家を継がせるためだろ。まあ、父さんに隠し事なんて無理だから、ばあちゃんの判断は正しかったよ」

「悠太朗さん、嘘は苦手そうだもんね」

「ばあちゃん、島では軽く扱われていたけど、すごい女だよ。戸籍を調べたら、母さんはじいちゃんとばあちゃんの養子になっていた。もし赤ちゃんの入れ替えが明らかになって父さんの相続でもめた時の保険のつもりだったんだと思う。俺が生まれた後は母さんとの養子縁組を解消して、俺が養子になっていたし」

 野良着姿の小さなおばあさんの姿を思い出した。いつももんぺを履いて手ぬぐいを首に巻いていた。真っ黒に日焼けした顔。曲がった腰に引っかけた蚊取り線香の香り。背中にかごを背負って畑に通う小さな後ろ姿。親戚は立場の弱い嫁だと見くびっていたけど、誰もあのおばあさんの本当の顔を見抜けなかった。本家の血が入っていない、嫁と婿の子が本家を継ぐという事態に気づくことができなかった。馬鹿はお前らだよと洋子さんは内心笑っていたことだろう。

「でもどうして父さんが自分の子でないと気づいたんだろうな。五十年も隠し続けたばあちゃんがぼろを出すとは思えないけど」

 それについては紗江に心当たりがある。言わないわけにはいかなかった。秘密も隠し事ももうたくさんだ。最後くらい、すっきりと終わらせたい。いくら嫌われてももうかまわないのだから。

「あの頃、私とさっちゃんは血液型診断にはまっていた。ノートにお互いの家族の血液型を書き出していたの。それをばあちゃんは見たんだと思う。ばあちゃんは香の血液型に驚いて洋子さんを詰問した。追いつめられた洋子さんは思わず本当のことを言ったんだと思う」

 祖母は本家の庭にあった石灯籠の石で洋子の頭を殴ったと警察で話した。洋子を殺した後、ちょうど会社から帰ってきた悠太朗を庭先で捕まえた。悠太朗に遺体の始末を頼み、自分は帰宅した。悠太朗が出ている間に、由紀から祖母に電話があったらしい。「うちのおばあちゃんがそちらに伺っていませんか」と。

「心配じゃけど、まだ大事にせん方がええ。この雨じゃけえ、立ち往生してどこかの家に上がりこんどるだけかもしれんし。とにかく悠太朗が帰ってこんことには。うちにも今日は若いもんがおらんし。今からそっちに行くけえ、それから考えよ」

 祖母はそういって、由紀と沙紀だけがいる納屋に上がったのだ。

 今でも石灯籠は庭にある。あの事件後も何度も目にした灯籠だ。それが洋子を殺す凶器になったとは誰も考えもしなかった。

 洋子は凶器の石を井戸端で洗い、元通り灯篭の一番上に置いたという。今回のことで警察が凶器の石を持って行ってしまったため、今はずいぶん間抜けな格好をした灯籠になってしまった。

 洋子と祖母は縁側で話をした。紗江と香が並んで座って、くだらないおしゃべりをしたその場所がかつての殺人現場だった。あの日、もう話は終わりだと言って家の中に引っ込もうとした洋子に祖母はかっとなった。灯籠の石を掴むと、縁側に飛びのって背後から洋子の頭を殴った。

「ここに帰ってきてから、全部香の計画通りに事は運んだのね」

 香と話した、一つ一つの会話が走馬灯のように紗江の耳朶に蘇った。縁側でのおしゃべりも、翔平と三人で訪れた三神島も、そこで見つけたお守りも、全て香の計画通りだった。紗江を連れ回したのも自分の行動が紗江を通じて祖母の耳に入るようにするための餌だった。

「でも楽しかった」

 香はそう言った。

「そりゃあ、あんたは楽しいでしょうよ」

 利用され、騙された方の身にもなってみろよ、と紗江は心の中で呟いた。おだてられほいほい食いついた自分の惨めさといったら。目尻が熱くなる。紗江は視界が霞んだことを意地でも認めたくなかった。それに一つだけ、香の計画通りでなかったことがある。

「あのお守り、悠太朗さんのものじゃないよね」