実が落ちる前に

自作小説を公開するブログです。暇なとき、読んでいただけたらうれしいです。小説は作品ごとにカテゴリー分けしています。日記や雑文はその他カテゴリーです。

父子家庭は危機一髪② 野口歩 web小説 ブログ小説 

 初めて下りる駅だった。FAXで送られてきた地図を頼りに駅から十分ほどの場所にある依頼人のマンションを目指す。途中、子供の声が聞こえた。一人や二人ではない。公園でもあるのだろうかと地図を見ると、近くに小春保育園という名の保育園があった。そういえば高校の頃、クラスに小春という名の女の子がいた。彼女は三月生まれだった。彼女も教養のない親のせいで、いらぬ苦労をする人生だ。彼女の面影に百合を重ねて、俺は急に泣きたくなった。そういえば、今頃がちょうど小春日和というのではないだろうか。

 マンションはうっすら汚れた外壁からみて、築十年ほどだろうか、ファミリー向けのごく一般的なマンションだった。ベランダにはとりこみ忘れた靴下の片割れが風で揺れている。

 オートロックを解除してもらい、三階まで上がった。インターフォンがなり終わらないうちに、待ち構えていたかのようにドアが開いた。俺はあやうく額にドアの角っこを食らうところだった。

「お待ちしておりました」

 依頼人はうら若き女性であった。それだけで思い出しかけていた父親の自覚も何もかも吹き飛んだ。

 水城涼子は長い髪を耳の高さで一つに結んでいた。白いブラウスにベージュのコットンパンツ、薄く引いた口紅も彼女の存在感をいっそう希薄なものにしていた。彼女はコーヒーカップを並べた後、ローテーブルを挟んで俺の斜向いに座った。正座した太腿の上で拳を握り締めている。それを見て、ああ、彼女はアンドロイドでもセルロイド製でもなく生身の人間なんだなと初めて実感した。そうやって見直すと、彼女はなかなか秘めた闘志を持っていた。切れ長の目が挑むように俺を睨みつけている。彼女とは初対面だから、なんとか平常心を保って彼女の顔を見返すことができた。もし少しでも彼女からそんな目を向けられる心当たりがあったら、俺は今頃尻尾を巻いてここから逃げ出している。

「森田さんからはどの程度までお聞きになっていますか」

 森田は俺にこの仕事を回した張本人である。昔は同じ職場で働いていたが、二人ともわけあって、今は別の仕事を始めている。森田は弁護士事務所を開き、俺はその下請けというわけだ。持つべきものは、優秀で甲斐性のある友人だということを、身をもって学ぶ日々である。ちなみに、元の職場というのは……まあ、警察である。

 俺は手帳のページを開いた。といっても、そこに何か書いてあるわけではない。頭に入れた情報をアウトプットするための習慣である。

「今年の三月十七日、あなたの妹、水城雪穂が通っている高校の教室で死亡した。死因は窒息、過呼吸を起こした水城雪穂が発作をおさえるために袋で口を覆ったことが原因だった。だから、病死か事故死かは微妙な線。あなたは妹さんの死に疑問を持っていて、森田の元に相談に行った」

「森田さんは高校の先輩なんです。先日、たまたまお会いしたとき、事件の調査のようなこともやっているとお聞きしたので、それで」

 涼子は無駄に入った力を抜こうと、一度肩を上下させた。すると、彼女の首が目に見えて伸びた。よほど肩が上がっていたのだろう。俺は彼女の背後に回って肩をほぐしてやりたかったが、それはそれで別の問題が起こることは分かりきっていたので、自制した。

「疑問というのは? 警察は結局事故として処理したみたいだけど、その判断に不服があるという意味ですか」

 涼子は頭を横に倒した。

「妹は過呼吸に慣れていました。一人のときに過呼吸が起きても、自分で対処できたんです」

 それなのに事故のときにかぎって水城雪穂は対応を誤った。いや、反対か。対応を誤ったがゆえに彼女は命を落としたのか。

「水城雪穂が過呼吸を起こしたときの状況は?」

「土曜日の放課後でした。場所は化学室。妹がなぜ化学室にいたのかは分かりません。一人だったのか、誰かと一緒だったのか。ただ、妹のクラスメイトが養護教諭を保健室まで呼びに行ったみたいです。養護教諭が駆けつけたときには妹はもう意識がありませんでした」

「そのクラスメイトの名前は?」

 彼女は眉を寄せた。

「分かりません。一応、名前は聞いた気がするのですが、当時はそれほど重要なことだとは思っていなくて控えなかったんです。すみません」

「いえ、いいんですよ。必要ならこちらで調べますから」

 俺は手帳から顔を上げた。

「それで私は具体的に何をすればいいのでしょうか。水城雪穂の死にあなたはどんな考えをお持ちなのですか」

 彼女は伏せ気味だった顔をすっと上げた。そのとき俺は思わず息を呑んだ。何事か、重大な決意をしたらしい彼女の顔はある種の迫力に満ちていてとても美しかった。

「私は妹の死を事故だとは考えていません。もちろん自殺でもありません」

 つまり、殺人だということか。俺は彼女の覚悟を確かめるために、その眸を覗き込んだ。彼女は目を逸らさなかった。

「私の疑問は二つです。一つは妹が使った袋です」

「袋?」

 彼女は大きく頷いた。

「パン屋さんの袋でした。茶色の紙袋だったんですけど、その紙袋の中にもう一枚、ビニール袋が入っていました。つまり袋は二重になっていたんです。その、中に入っていたビニール袋が窒息の原因になったと警察は」

 彼女は悔しそうに唇を噛んだ。

「でも、それがおかしいんです。袋にパンは入っていませんでした。そして雪穂の胃にも」

「パンの行方が分からない、と。だが袋は当日、パン屋でもらったものとは限らない。以前、買ったときについてきたものが鞄の中に入っていたのかも」

 それに雪穂自身が過呼吸の発作が起きたときのために持ち歩いていた可能性もある。

 だが涼子は強い口調で否定した。その語気の強さに、思わず尻が飛び上がる。俺の本能は逃げろ、といっている。昔から逃げ足の速いことが身上だ。これで大概のことはうまくやりおせている。上手くいかなかったのは幸子とのことくらいか。難しいのは、結婚生活においては逃げ出すことは成功しても、あとで帰る場所は一つしかないということだ。

 涼子の目の光に鋭さが増す。俺はせいいっぱい上半身を後ろへ引いて、いつでも逃げ出せる準備を整えてから、おずおずと尋ねた。「なぜ」と。

「雪穂は潔癖症でした。アレルギーや喘息を持っていたから、神経質だったんです。だからパンが入っていた袋なんて、雪穂にとってはごみ、すぐにゴミ箱です。いつまでも鞄に入れているはずがありません」

「なるほど、なるほど」

 あんな恐い目で睨むくらいなら、それを先に言ってほしかった。

「それに雪穂は過呼吸を起こしても、袋で口を覆ったりしなかった。あれはあれでけっこう苦しいんだそうです」

 なるほど、なるほどと頷きながら、俺は難しい問題が出てきたことに気がついた。

 過呼吸を起こしたら、袋で口を塞ぐ。これがいいのか悪いのかは知らないが、かなり一般に出回っている方法である。涼子が言う通り、雪穂が袋を使わないのだとしたら、他人が雪穂の口に袋を持っていったことになる。だが、これははたして殺人だろうか。もし他人が善意で行なったことが、不慣れや何らかのアクシデントによって結果的に雪穂を死に至らしめたとしても、俺の感覚ではやはり不幸な事故だったというべき事案だ。法律的にもおそらく。

 だが、今の俺は警察ではない。法律や常識なんてくそくらえだ。要は涼子が納得するかどうか。俺の調査結果を彼女がどう理解しどう使うのかは、俺の知るところではない。

 それにしても、と俺は彼女に気付かれないようにため息をついた。過失を証明するのは悪意をそうするよりも難しい。ましてや善意となると……俺は初めて、今回の調査の難しさを知った。

「もう一つの疑問というのは」

 涼子はローテーブルの隅に載せてあったスケジュール帳の中から一枚の写真を取り出した。彼女がまだ他に写真を隠し持っていることを確認してから、俺は差し出された写真に視線を落とした。思わず、「ほう」と溜息をつく。

 雪が降っていた。白い街を男と女が歩いている。男は中年、俺より少し上、おそらく四十代後半だろう。量は多いが白髪が目立つ頭を俯き気味にしていた。俺の興味をひきつけたのは女の方だった。男の相手として女は明らかに若すぎた。おそらく高校生。紺色のダッフルコートにグレーのマフラーを巻いている。

「先日、妹の荷物を整理していたとき見つけたものです。多分、妹がデジカメで撮ったものをプリントしたんでしょう」

 普通紙にプリントしたものではなく、ちゃんとそれ専用の台紙を使っていた。

「何の写真に見えますか」

「そうだな。まあ、あまり感心しない構図ではあるな」

 中年男と女子高生が一枚の写真に写ってはいけないという法律はないし、他人がとやかくいうことではないのだろうが、でもそれは時と場所による。背景に写る街並みは本来なら、女子高生が通ることすらいただけない場所だった。

 涼子は俺の答えに満足したようだ。彼女の視線がふっと和らぐ。

「同じような写真が他に三枚ありました。連続して撮ったみたいです」

 涼子は言いながら、テーブルに写真を並べる。最後の一枚はほとんど二人の顔は写っておらず、女の背中に回した男の手に俺は眉を寄せた。二人はラブホテルに入っていくところだった。

 俺は三枚の写真をシャッターが切られた順番に並べる。頭の中で写真の二人の動きをイメージし、雪穂になったつもりでシャッターを切る。俺はこの界隈を知り尽くしているから、二人が入ったホテルだけでなく雪穂がシャッターを切った位置まで、その場に行かずして分かった。思った通り、明らかに抜き取られた写真がある。一枚目と二枚目の間にベストショットがあったはずなのだ。二人の顔がはっきりと映った……、ここにないということは雪穂がプリントしなかったということか、それとも雪穂が外に持ち出したのだろうか。

「妹が通っていた塾がこの近くなんです。私は女子高生が通うには立地が悪すぎるからと思って反対したんですけど、いい先生がいるからって言って聞かなくて」

「水城雪穂はどうしてこんな写真を撮ったんでしょうね。この女は彼女と同じ年頃のように見えますが」

「ええ。ここを見てください」

 涼子の細い指先が写真の表面を滑る。

「コートの下からスカートの裾がのぞいています。これ、多分、妹が通っていた高校の制服です」

 俺は目を凝らして、その一点を見つめた。老眼が始まった目でも何とか彼女の要求に応えることができた。たしかにそこにはグレーのスカートが写っていた。

 涼子は新たな写真を差し出してきた。

「妹のアルバムを調べました。写真の子はおそらくこの子です」

 今度は桜の下で撮ったクラス写真だ。涼子は最後列を指差している。俺にはなんとも言えなかったが、涼子が自信を持ってそういうのだから、その子で当たりなのだろう。

「水野葉子という名前です」

 涼子が例の目力で俺をじっと睨みつけてくる。この子を調べろというのだろう。女は弁も立つし、目は口以上にものを言う。

「この写真を撮ったデジカメを見せてもらえないか。それにデータが入ったメモリカードも」

「それが見当たらないんです。ないはずはないんですけど」

「水城雪穂があなたに内緒で売ったかな」

「あの子、デジカメをいつも持ち歩いていました。だからどこかでなくしたのかもしれません。パソコンを調べましたけど、パソコンにデータは残っていませんでした」

「じゃあ、これは貴重な写真というわけだ」

 涼子の了解をとり、三枚の写真とクラス写真を手帳に挟む。

「この写真が妹の死に関係があるのかは分かりません。もしかしたら全然関係のない、遊び半分で撮った写真なのかも。ただ、気になるんです。警察は簡単に妹の死を事故として処理しました。でも人一人が死ぬのって、そんなに簡単なことじゃないと思うんです。私は真相を知りたい。どうして妹があんな死に方をしたのか。私にとって妹はただ一人の家族でしたから」

「失礼ですが、ご両親は」

「一昨年、交通事故で。事故の後は妹と二人で助け合って生きてきました」

「そうでしたか」

 俺はリビングとダイニングを見回した。二人暮しには大きすぎる食卓。四脚の椅子。安物のソファとブラウン管仕様のテレビ台。多分、彼女はまだ両親の死からも立ち直っていない。

「あなたは今……」

「保険会社に勤めています。両親から継いだものもありますし。ですから、調査費は払えると思います。あの、お幾らくらいになりますか」

「それは期間にもよりますが。一日五万円プラス必要経費ということになっています、一応」

 俺はそこからピンはねをされるというわけだ。元同僚は弁護士になるためにかかった金の回収に躍起になっている。目先の利益を追求するあまりに、友情を蔑ろにしている。

「それでは依頼内容は水城雪穂の死の真相を調べる、と。調べた結果、やはり事故だったということもありますよ。お金をかけてそういう結論が出てもかまいませんか」

「ええ、かまいません。その覚悟はできています」

 涼子はもう冷えきったコーヒーを口に含み、その苦味を心に刻むようにゆっくりと飲み込んだ。彼女の薄い皮膚の下で喉がこくりと動く。どうして神は彼女にばかり試練を与えるのだろうか。

「まずはどこからお調べになるおつもりですか」

「そうだな。まあ、水野葉子の線が先だろうな。この写真の意味。それに水野葉子が事件のとき、どこにいたのか。そのあたりからが妥当だろう」

 涼子は満足そうに頷いた。それを見て俺は確信した。彼女は妹の死について殺人以外の可能性は考えていないし、その犯人は水野葉子という同級生でしかありえない。そういう考え方は非常に危険だが、ここは警察の捜査本部ではないし、彼女が金を出すのだから彼女の満足がいくようにすべきなのだろう。調べた結果、水野葉子が犯人でないことが判明したら、その時点でどうすべきか、調査をやめるか、別の犯人を探すか、それは彼女が考えることだ。

 それから彼女との間でいくつかの事項を確認してから、俺は腰を上げた。

 玄関先まで見送りに来てくれた彼女に俺は最後の質問をした。

「どうしてわざわざ俺に依頼をしてきたんだ? この写真があって、写真の女の名前も分かっているんだ。あとは会いに行けばいいだけなのに」

「水野葉子が妹の死の真相を知っているとは限りません。それに私、自信がないんです。妹を殺した人間を目の前にして冷静でいられる自信が。だからプロの方にお任せすることにしたんです」


仮作1