実が落ちる前に

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父子家庭は危機一髪③ 野口歩 web小説 ブログ小説

 やもめ暮らしのアパートに帰ると、思いがけず窓から明かりが漏れていた。道路から見上げ、カーテンの後ろで動く影を確かめる。

「どんな感触だった? 彼女と会ってきたのでしょう?」

 森田かずきから缶ビールを受け取り、一気に飲み干した。焦れるかずきを横目に二本目の缶ビールを取りにソファから立ち上がる。二本目のビールはさすがに一気飲みというわけにはいかなかった。これも年のせいだろう。この調子でいくとあっという間に俺はじいさんになるし、百合は女になっていく。百合が老いぼれた俺に愛想を尽かすのが先か、俺が逃げ出すのが先か。そのときになってみないと分からないが、俺には幸子と生き写しの百合と対峙する自信がない。

 人心地がついたところでやっとかずきの要求にこたえる気になった。かずきは両手でビールの缶を持ち上げたまま、ふんふんと頷く。彼女は相変わらず白く石膏のような肌をしているし、俺も彼女の肌の美しさに惚れた口だが、それにしても今持っているビールはたしか四本目のはずだ。頬も染めないし、小便にも立たない。俺には女の身体の仕組みが理解できない。

「これ、殺しかしら」

「なんとも言えないな。事故のような気もするが、この写真もたしかに気になる。そういえば君はどうしてこの案件を俺に回したんだ。君の興味を引きそうな事件だとは思えないがな」

 かずきはふうっと鼻から息を吐いた。それは彼女が気合を入れるときの儀式だった。

「彼女のご両親、交通事故で亡くなったのよ」

「ああ、そうらしいな。彼女から聞いた」

「交差点の中で起きた事故だった。彼女のご両親が赤信号なのに交差点に侵入してきた、と。深夜で目撃者がいなかった。生き残ったのは相手の運転手だけ。彼の言い分が全て通ったのね。こういう場合の警察のやり方、あなたならよく知っているでしょう? 彼女、私のところにきたわ。このままでは両親がかわいそうだ、と。事故から一ヶ月が経っていた。私は目撃者を探し出そうと聞き込みに回った。事故直後には出てこなかった目撃者が三人もいたの。三人が三人とも相手運転手と同じことを言った。彼女、疲れ切っていた。その後、三人が相手運転手の知り合いだったことが分かっても、もういいって」

 かずきの頬に睫の影が映る。かずきの睫は驚きほど長い。そしていたって日本的な顔にはまるで似合わない。

「私のやり方が下手だったのね。毎日、彼女に調査経過の報告をしていた。彼女は私の報告に一喜一憂したわ。目撃者が出たといっては喜び、証言を聞いては落ち込み、それを三度も繰り返したんだもの。誰だってどうかなるわ。今だったら分かりきったことなのに、当時の私には分からなかった。自分がかける電話が彼女の神経をすり減らしていることに気づかなかった。後でまとめて報告した方がよかった。全部証言を聞き取ってからね。そうすれば、彼女の落胆は一度で済んだんだもの」

 俺はかずきの肩に腕を回した。ゆっくりとさすってやる。警察をやめてから五キロも太ったと言っていたが、それでも彼女の肩は十分細く、弱々しかった。ふと、寒々としたリビングルームの風景を思い出した。

 涼子には肩を抱いてくれる人間がいるのだろうか。

 彼女に対して失礼にあたるかもしれないが、そういう相手がいるとは思えなかった。もしいたら、彼女が俺に依頼してくることはなかったからだ。彼女は自棄を起こしている。世の中に対する不信感が彼女を攻撃的にさせている。妹の死に疑問があれば看過できないのは当然だが、それにしたって一人っきりで俺に対して殺人事件だと訴えるような真似はさせたくなかった。彼女の周囲の男どもは一体何をしているのだ。俺はがらにもなく義憤にかられた。

過呼吸で窒息なんて、よくあることなのか」

 かずきは頭を起こすと、乱れた髪を手櫛で整えながら言った。

「ないことはないみたい。過呼吸自体で窒息になるわけじゃなくて、処置を間違えて、ね。口を袋で覆うのをペーパーバッグ法っていうんだけど、最近では医者はこの方法はすすめていないんですって。過呼吸を起こした人がいたら、気持ちを落ち着かせるように背中を優しくなでてあげるだけでいいのよ。水城雪穂は自分ではどう対処していたのかしら」

「涼子の話では、やっぱり袋は使っていなかったそうだ。窒息云々を心配していたわけじゃなくて、ただ袋を使っても使わなくても過呼吸がおさまるまでの時間があまり変わらなかったからだと。元々、雪穂はアトピー持ちのうえ喘息持ち。両親の事故をきっかけに過呼吸を起こすようになって、ひどいときには日に何度も発作が起きていたらしい」

「事故の前は?」

「家ではほとんどなかったらしい。ただ、学校ではどうだったか。明日、聞いてくるよ。涼子に頼んで、雪穂と仲のよかった子と会う約束をしてもらったんだ。調査を始めるにしてもとっかかりは作ってもらわないとな」

「たしかに。いきなり中年男から電話がかかってきても、女子高生は相手にしてくれないでしょうね」

 言いながら、かずきは顎に手をやった。

「そうね。思ったよりも難しい仕事かもね。最近の学校は警戒心が強いもの。現場の教室には入れないでしょうし、相手が高校生じゃあ、うかつには動けない。この、水野葉子という生徒に会うのもけっこう大変……」

 かずきははっと顔を上げた。

「まさか、明日会う友達って水野葉子じゃあないでしょうね」

「そこまでのお膳立てはしてくれないさ。カナコっていう子だよ。水野葉子の連絡先は分からないんだと。雪穂の携帯電話にも登録されていない。クラス写真を一緒に撮っているんだから、クラスメイトには違いないだろうけど、そこまで親しい仲じゃなかったんだろうな。だとしたら、雪穂がどうしてこんな写真を撮ったのか」

 写真に視線を落とす。女子高生の顔がピンク色のネオンに染まっているが、その表情までは読みとれない。媚びているようにも見えるし、泣いているようにも見えた。

「きっと今、私達同じことを思いついたわよね」

「多分な」

「強請っていたとしたら、それなりの痕跡が残っているはずよね。高価なバッグとか残高が増えた通帳だとか」

「だが、それを涼子が俺に教えてくれるかどうかは彼女次第だ」

「そうだけど……あら、これ」

 かずきは写真を手に取って顔に近付けた。

「クリスマスの頃ね。ほら、切れちゃっているけどここにツリーがある」

 たしかに写真の端っこにクリスマスツリーが写りこんでいた。本物のツリーではなく、壁に電飾したツリーだ。そういえば、去年のクリスマスイブはホワイトクリスマスになったと、世間は妙に浮かれていた。

「この写真が十二月。雪穂が死んだのが三月十七日。まあ、ちょうどいい頃合ではあるな」

 雪穂がどれほどの要求を写真の女にしたのかは分からないが、もし女が雪穂の死に関わっていたとしたら、彼女は三ヶ月間耐えたのだ。高校生同士だから、雪穂も恐喝者としての節度を知らなかっただろうし、恐喝される側もそこまでの忍耐力はなかったに違いない。想像通り、彼女が親父相手の援助交際で普通の高校生以上に金を持っていたとしても、雪穂の方はそれを見越して要求しただろうし。そう考えると、三ヶ月というのもよくもった方だ。もちろんだからといって、写真の女を褒める気にはなれないが。

 かずきはまだ仕事が残っているからといって、夜のうちにアパートを出てしまった。俺は仕事が口実であることに気づいている。かずきは今日、俺が百合と会ったことを知っている。知っていながら俺はかずきを引き止めなかった。俺もまた久しぶりに百合の顔を見たことで妻へのこだわりを思い出してしまったからだ。


仮作1