実が落ちる前に

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父子家庭は危機一髪⑥ 野口歩 web小説 ブログ小説

 可南子と別れてアパートに帰ると、留守電のボタンが光っていた。嫌な予感がしたが、無視するわけにもいかない。俺は片方の耳を指で塞いでから、おそるおそる留守電を再生させた。

「パパ、私」

 一瞬、幸子の声に聞こえ、思わず飛び上がる。声の主は父親の気持ちなどつゆ知らず、何の感動もない声で続けた。

「今日、結果が出てね、筆記試験に受かったの。まあ、ほとんどの子が受かっているんだけどね。なんせM女だし。それでね、この前会った時の話をしたら、じいちゃんが怒り狂っちゃってね、血圧が一気に五十も上がったの。もう少しで病院に運ばれるところだったんだよ。しかも今朝、電話してもパパ、出ないしさ。あのさ、差し出がましいことを言うようだけど、私に親らしいことはしなくてもいいからさ、せめて親孝行くらいしたら? それがひいては私のためにもなるんだし。一石二鳥じゃん。つまりね、電話の用件は今夜、じいちゃんに電話してっていうこと。あとね、面接日は再来週の月曜日だから。気が向いたらおいでよ。じゃあね」

 留守電の百合の声には屈託がまるでなかった。先日、気まずい別れ方をしたが、百合はそのことをすっかり忘れたのか。それとも、もう期待もされなくなってしまったのか。

 俺は電話の受話器を手に取ったが、登録された実家の番号を表示させることはできても、発信ボタンを押すことは出来なかった。

 何を怖気づいている。男だろう。

 どれほど、そのままでいただろうか。結局、受話器を叩き置き、俺はベッドに倒れこんだ。まだ外は明るい。とにかく夜になるまで待とう。自分が電話をしないことはもう分かりきっていた。電話とベッドを往復し、最後には電話線を引っこ抜いた。こうしておけば、今夜だけは安穏な夜を過ごせる。

 息子が言うのも何だが、よくできた両親であった。

 俺も途中まではそれなりの出来の息子だったはずだ。親父に比べて給料は少なかったが(何せ相手は銀行の頭取、ハナから勝負にならない)、両親を安心させるには十分のお堅い職業についたし、世間体が悪くなる前に結婚もした。孫の顔も見せられたし、表向きには理想的な家庭を築いていた。

 三年前、突然歯車は崩れた。

 ちょうど新築の一戸建てを建てようという話が出た頃だった。両親は乗り気だった。いつまでも官舎住まいというわけにもいかなかった。俺はもう一人、できれば男の子がほしかったし、家族水入らずの空間なり時間が必要な時期だった。

 幸子が突然、家出をしたのだ。

 当時、俺はある殺人事件の捜査本部に詰めていた。もう一週間も家に帰っていなかった。夜中、警察署の仮眠室で横になっているとき、百合から電話がかかってきた。「ママが帰ってこないの」俺は仮眠室を飛び出した。

 その日は百合を実家に預けた。明け方、職場に帰りながら俺は幸子をさんざん罵倒した。後で考えると、不思議なことに俺は幸子の身を案じていなかった。事故に遭ったのかもしれないというそれだけの想像力すら働かせようとしなかった。後日、おふくろが警察署や病院に事故の問い合わせをしていたことを知った。

 結局、幸子は帰ってこなかった。幸子が見つかったのはあるスーパーマーケットの駐車場にとめられていた乗用車の中。車外で見つかった男は生きていた。土壇場になって恐怖のあまり車から飛び出してしまったらしい。

 幸子の遺体は所轄の警察署に運ばれた。俺は通い慣れた道を急いだ。タクシーを使う気にはなれなかった。一年前まで勤務していた警察署だったからだ。中に入ると、まだ知った顔が何人もいた。彼等は俺と目が合うと、すぐに顔を逸らした。お悔やみを言いに来る者はいなかった。遺体安置所まで案内しようという人間もいなかった。

 幸子の遺体はきれいなものだった。

 俺は直前に知らされた事実を受け入れることができなかった。幸子の冷たい頬を撫でようとして、思わず爪を立てる。

 相手の男も俺と同じ、警察官だった。官舎の隣、二人の子供を持つ警察官だったのだ。

 幸子の葬式を済ませると、俺は官舎の荷物を処分した。百合と実家に引きこもり、一年分の有給を使い切った後、警察をやめた。

 相手の男が、家族や職場や、それに世間に対してどう始末をつけたのか、俺は知らない。ただ、俺と同じやり方はしなかっただろうと想像するだけだ。そうでなければ、幸子が男に惚れる理由がない。

 幸子の実家が百合を引き取りたがった。どの面下げてという気持ちにもなったが、冷静に考えてみると、百合のためにはその方がいい気もした。晴れて無職になった俺には百合を育てていくだけの自信がなかった。自分の両親に預けようという考えにならなかったのは、その頃にはもう実家の居心地の悪さに辟易していたからだ。両親の間で幸子は鬼か悪魔になっていた。俺は百合に母親の悪口を聞かせたくなかった。

 結局、事態は俺の思うようにはならなかった。俺の魂胆に気づいた両親は俺を人でなしだと言った。俺は一人で実家を出た。百合を連れて行こうとしなかった。いつかは迎えに行くと心に決めたものの、口に出して言うことはしなかった。

 我が子を捨てるのか。

 そう言ったおふくろの声が耳から離れない。

 俺が悪いのか。

 そう言い返したような気もする。だが心の中でだけだったかもしれない。

 俺は子供だ。

 おふくろにだけは味方でいてほしかったものだから、あの一言がこたえたのだ。なんて子供じみた考え。未だにそれにこだわって、こそこそと逃げ回る。時々、百合にこづかいを与えて父親の義務を果たした気になっている。

 そんな俺が父親面をして、娘の面接に出れるものか。

 結局、ふて寝を決め込んだ俺は寝酒に焼酎を流し込んだ。


仮作1